ぼくの優しさはウソですか?
ぼくが接したお坊さまは、みんな優しいです。
祖父の法事に来たお坊さんは、自分のがん治療体験を基に、命の尊さと大切さを教えてくれました。
Hasunoha で聞いた曖昧な質問に回答をして下さったお坊さまは、分り易い答えをくださりました。
旅先で訪れた先のお寺で出会った住職は、私の他愛のない質問に真摯に答えてくださりました。
ぼくは、弱いです。
学生時代から20年以上いじめられています。大したことじゃない。多分、誰にでもあるような、からかわれ、陰口、いびりくらいです。大したことないからこそ、言えずに、辛かった。
僕は、弱い。
アラサーも超え、はじめて、その弱さと向き合い、認めることができました。
大震災から5年。
はじめて、ひとのチカラになれるよう行動ができた。弱さを認めたから、出来たのかもしれません。今でも、続けています。
ただたまに、よく分らなくなります。
ぼくが行うボランティアや、日常の人助けが、僕の隠れた弱さをカバーするためのものなのか。誰かを手伝うことで、驕り高ぶってないだろうか。優越感に浸ってないだろうか。人のチカラになることを、自分の経験として利用していないだろうか。
訳がわからなくなる時があります。
ただ、実際のひとのやさしさを目の前にしたとき、ぼくはうそをつけなくなりました。ひとの情熱を目の前にしたとき、ぼくは今の自分を、恥ずかしく思いました。何だっていい、TV でもYoutube でもいい。
体が熱くなる。涙が、出てくる、ちからが湧いてくる。
ぼくはこれかも、夢や希望をもって努力する人のチカラになれるよう努力します。
そこで、お坊さまがどんな心持ちで過ごし、働き、人と接しているか知りたく、ご質問させていただきました。よろしければ私がどのように映るのかお教えいただければ有難いです。
長文失礼しました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
真似でも一生続けられたら、それはホンモノ
俳優の杉良太郎さんは長い間、いろいろな慈善活動にうちこんでおられます。杉さんの活動を「売名行為だ。人気取りだ」と非難する声は常にあって、杉さん自身も最初は悩まれたとインタビューで語っていらっしゃいました。
杉さんによれば「最近はそういうことでは悩まなくなった。売名だといわれても、”ええ売名ですよ。あなたもやってみませんか”といえるようになった」とのことです。
永平寺の前住職の宮崎亦保禅師は生前、「亡くなった自分の師匠は立派な坊さんだった。あんな坊さんになりたいと思った。真似をしたがなかなか真似しきらん。三日でやめたら三日の真似、十日でやめたら十日の真似。だが真似でも一生続けられたら、それはホンモノということだ」と語られています。
自分自身の行動をよく観察し自問自答することは大切ですが、それが度を超してしまうと、考え過ぎの堂々巡りに囚われてしまいます。
「こうしていることは果たして正しいことなのか」と疑問を持つのは当然のことですが、それに足を取られて肝心の行動ができなくなってしまったら、それは本末転倒です。
落ち葉が風に飛ぶのも因縁によります。落ち葉が飛ぶこと自体を真か偽か、正か邪かと問うても答えはありません。
あなたがボランティアにうちこんで他の人のためになることも因縁によります。その行為自体が真か偽かと疑うよりも、それが他の人の役に立っていることをよく吟味して続けられてはどうでしょうか。
慈悲
めんたいこみかん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「優しさ」に対しての素晴らしい気付きであるかと存じます。有り難しです。どうかそのお気持ちを忘れずにお願い申し上げます。
とにかく、私たちは皆、弱い存在です。弱い存在同士だからこそ、お互いの支え合い、助け合い、分かち合いが必要となります。
また、自分自身が弱い存在であるからこそ、人の弱さに気を配れていけることにもなります。
相手も自分と同じようにつらく、しんどく、苦しいのだから、少しでもそれが和らぐように、癒せるようにと。
それは、仏教において大切となる「慈悲」の心でもあります。
まだまだ拙いばかりではございますが、拙生も、少しでも皆様の苦しみ、迷いが無くなりますようにと、日々の行い、また、hasunohaにおいても取り組ませて頂いて参りたいと存じております。
共に慈悲による行いにも励んで頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
百目鬼洋一 様 川口 英俊 様 丁寧な回答をありがとうございました。
御二方の回答を読ませていただくと、私の行動は慈悲に基づくもの。そして続けることで
意味と意義を見出すことができると分りました。
これからも続けられるよう努力します。