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「除夜の鐘」に苦情 マジか‼

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年末年始の風物詩とも言える「除夜の鐘」の騒音苦情の対応に中止されるお寺が増えている事について

苦情を申し出る理由はそれぞれであろうかと思います。
「明日は仕事だから寝れない」
「赤ん坊が寝起きで泣く」
「宗教上の理由で鐘の音を聞くのが嫌だ」
などなど‥‥

ただ個人的な思いですが、年に1度厳かに新年を迎える行事を楽しみにしている方が大多数かと思います。年に1度だけでも苦情の方は少しあいだ忍んで頂けないものなのかな~‥と思います。

正直、除夜の鐘までにクレームが出る世の中に「どうした日本」って感じで衝撃と悲しい感じです。
苦情を受けたお寺さんにもご苦労をお察し申し上げる次第です。

そこでお坊様方々に二つお尋ねします。
一つ、もしこの様な苦情を受けた場合にどの様な対応をされますか?
二つ、楽しみしている多数派より少数派(マイノリティー)を優先しなければならない現状をどう考えますか?

お答え頂ければ幸いです
<(_ _)>


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

中止する必要はありません。ゼロか100ではない対応を。

👉そういう苦情をあげている方はおそらくそのお寺さんに対する個人的な嫌悪感が強いだけであると思います。そもそも先住民であったのはお寺でしょう。
後から、住みついた方々が、自分達の権利ばかり主張して、土着のネイティブ民族、ずっと長く愛されてきた歴史のあるものを個人的な私情でもって排除しようとする姿勢は、宗教云々の前に人間としてあまりにも不寛容というべきものです。そういう認識をもって頂く事の方が先だと思います。
どうしてもだめというのならお寺の対応としては鐘を撞く時間を決め認知して頂けばよいでしょう。
当山では、若い人が強い力で鐘を打とうとするので鐘が割れない様に撞く撞木にクッションを当ててアタック音がならない様に工夫しています。
そもそも除夜は日本の国民行事です。お盆や除夜というのは我々の先祖が継承してきた日本人の穏やかな精神を培ってきた重要な文化でもあるのです。
それを個人的な理由で中止に向かわせようとするものは、あまりにも歴史や全体を無視した個人的都合が過ぎると感じます。
そういう自分を中心としたものの捉え方や、排他的な精神、敵対心等を滅するのが除夜の鐘というものです。夜を除く、夜とは、ヤミ、病み、闇、止み。心のネガティブな働き全てです。
1子供が寝られない
古来も子供はいたはずです。大人たちがそういう姿勢でピリピリしていたり、寛容性の無い生き方をしていれば子供たちこそがそういう親の背中で真似て寛容性や協調性のない大人になりましょう。
2仕事がある
除夜の鐘がうるさくて寝られないというのなら耳せんでも対応が効くでしょう。そこまで騒音となるようなものではないはずです。
3宗教上の理由で好き嫌いというならば、ハロウィンやクリスマスに関しても寛容な心で接している仏教の姿勢からこそ同じ宗教として宗教性の本質を学んでいただきたいと感じます。
仏教徒がキリスト教の行事のクリスマスやハロウィンにクレームをつけたり反対をしているでしょうか。
本当の宗教性とは、他の宗教も寛容に認め合って尊重する態度ではないでしょうか。
宗教上の理由という名のもとに、他の宗教は一切容認しないという抗戦的姿勢そのものが宗教的ではありません。
伝統行事を無くす程の行き過ぎた気遣い・自粛はやり過ぎであると感じます。
中止する側も妥協のラインを他の方々も納得がいくような形で対応していくべきであると感じます。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ミッション:シャングリラを救え

1.およそ世間の声とは、右を見れば「左を見てない!」と批判し、左を見れば「右がおろそかだ!」と言い、そうかと言って左右交互に見れば「中途半端なことをするな!」とケチをつけるものです。そのような『消費者の声』の偏重はコンセプトの破綻をもたらすだけで、美談でもなんでもありません。
仏教の専門家として、専門家の側からその魅力や意義を発信していきたい考えていますし、発信して欲しいと望んでいます。

2.根底には「文句を言わないと損」という現代人特有の価値観があるのでしょう。なぜそんな社会になったか?仏教的価値観が廃れたからです。このような言葉があります。

>物事の道理を知らない人は「他者のためを先としたら自分が損をする」と思っています。そうではないのですよ。思いやりは世界の真理の実践です。自分も他者も一緒に救われる…そういうものです。(修証義 第4章)

仏教ってこういうものです。色即是空ってこういうことです。それが一般の人に伝わっていない。みーんな困った時の神頼みだと思っています。異常です。だからお坊さんは仏教を発信せにゃなりません。「ネットで仏法は説けません」(キリッ)なんて言ってるようじゃ世知辛くなるだけなんです。

3. Far Cry4というチベット仏教風世界のゲームがあります。その中で主人公は怪しいクスリを投与されて神話の楽園・シャングリラにブッ飛びます。楽園は魔の軍団に占領され、荒れ果てています。主人公は魔の軍団をしのぎながら、マニ車を回しつつ大仏に向かいます。そして魔の軍団に縛された大仏の鐘を解放したその時、鐘がゴーンと鳴り、魔の軍団はボンッボンッと退散します。
https://www.youtube.com/watch?v=8lNChDQhvxs

魔とは煩悩の暗喩。鐘の音色は煩悩を消し、心の平穏をもたらす…あ、日本仏教、負けてね???

ゲームですら仏教を描いています。江戸時代までそういうのは日本仏教のお家芸でした。昔話や物語、能、歌舞伎、落語、果てはエロチックな白拍子にまで、仏教的価値観や世界観を落とし込んで発信していました。今や海外のUBI社に遅れをとっています。

なぜ除夜の鐘が廃れるか?単純です、面白くないから。刺激に慣れた現代人の感覚がインフレし、除夜の鐘は置いてけぼり。そういうことでしょう。もっと何が出来るか考えたいですね。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

鐘つき堂について。

知り合いから聞いた話ですが、、、
修行僧のおられる寺院の、向かいにあるマンションに、その方は住んでおられます。
朝6時から、活気溢れる修行僧のお経が聞こえてくるそうです。

それで苦情が出ているそうですよ・・・
向かいの寺のお経が朝早くからやかましい。お経はせめて朝8時からにしてくれって。

その寺が苦情を受け入れたかどうかは知りませんが・・・
まあ、こんな話イチイチ気にしててもキリがありまへん。
言いたい子には言わせとけばええ。

ところで、このような類の話、特に今になってから始まったんでしょうか。

ウチの寺にもかつて鐘つき堂がありました。
しかし、すでに昭和20年代には、朝夕の鐘がうるさいって苦情があったそうです。

その鐘も昭和30年代に襲来した台風で吹っ飛んで行きましたが。

私が子供の頃、おばあちゃんに鐘つき堂を建ててほしいと言ってましたが、どうも鐘があったらあったで守をするのが大変だそうです。

だから、もしかすれば・・・

>もしこの様な苦情を受けた場合にどの様な対応をされますか?

個人のクレームは受け付けません。
ひつこいなら、弁護士通して話をさせてもらいます。

>楽しみしている多数派より少数派(マイノリティー)を優先しなければならない現状をどう考えますか?

ゴネ勝ち、言ったもん勝ちだと認識しております。

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おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

丹下覚元様
ご返事ありがとうございます
おしゃる通りと思います。
よくぞ言って頂きました。

寛容の器が狭いと言うか、自己本意の物の見方しか出来ない人、残念ですね。
クレーマーが自ら苦を招いているのではないかと哀れみを感じます。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

大慈様

長文ありがとうございます
そうですね仏法がもっと世間に浸透したらいいのに‥‥
って思ってます。
大慈様の活躍に期待してます。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
海老原 学善様

ご返事ありがとうございます

昔からも苦情はあったんですね(笑)
ビシッとやっぱり突き返すんでか
そうあって欲しいと思います

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ