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稼ぐ? 儲ける?

回答数回答 3
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私が月に1度、お話していたお坊さんから頂いた言葉を考え中です。
半月、失業中の私。前はパート。直近はエンジニア。パートを辞めた時、フルタイムで働いても数万円の報酬でした。その時に頂いた言葉が「数万円でもお金を稼ぐとは良いことです。余計な事を考えず働く。」辞めた時「フルタイムで働いて数万円なら辞めて正解です。」ん?と思い、エンジニアに復帰し、いろいろな理由で退職し現在、失業者の私に一言「社会に繋がっていない。どこでも良いから働きなさい。介護がいい。人手がないから誰でも受かる、働ける。」私、その言葉に怒ってしまいました。私が失業者だからに怒ったのではなく、今も過酷な介護の現場でご活躍されているスタッフに失礼だ!と思ったから。私も介護の資格を持ち勤務したこともあります。やった事があるから分かる。いつか私は、このお年寄りを殺めるんじゃないかと怖かった。鳴り止まないナースコールから1ヶ月と持たなかったから。
仕事がないから…そんな腰掛け理由で働く場所じゃないんだよ! プロとしてやってる介護スタッフをバカにするな!! と思ってを通り越して
オブラートに包んだ言葉で初めて、お坊さんに反撃してしまいました。
この頃、思うことは働く、稼ぐってお金だけじゃないんじゃない、と思うんです。生きていく上でお金を稼ぐは当然、必要です。お坊さんの言う事も分かる。分かりますよ。
だけどね自分の中の豊かさ、というか。例えばハスノハで生きる基本を勉強すること(うまく言えませんが)いろんな意味で、いろんなものを稼いでいる気がします。

失業者の甘い考えと、違~うとお考えなら、どうか私に渇をいれて頂きたくて。人生模索中!
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

改めるべきはあなたではなくあなたの姿勢、生き方。

あなたの言う心の豊かさを求めるのであれば、その坊さんの言ってくれた言葉にイチイチ過剰に反応せず素直に「ああ、現場は確かに人が少なくて大変だったよなー、恩返しで、お手伝いさせてもらうつもりでもう一度やってみます。」でお終いでしょう。
アドバイスを求めて、アドバイスをくれた人間にいちいち腹を立てたり、難癖つけたりってどーかと思います。アンタがアドバイスしている立場だったら「アー?この人、話のホンスジを聞いてない。やれやれ。」とか思われてると思わんのですか。
言わんとするのは分かりますが、喝を入れろというから申し上げます。その前に「渇」じゃない。
ですが、アンタの場合は喝じゃなくて今年の脳内一字が「渇」なのでしょう。自分ラブの皿が渇いている。だから、そういう自分を中心とした、まがったものの見方になる。自分を中心としたものの見方とは、いわゆる自己チューではない。人と接したり、こういう回答を受けたったり、ものを眺める時に一面的にしか見ることが出来ない愚かな状態。「自分が~したい」とばかり枯渇しているから、何を言われてもワタクシする。自分サイドにする。ワタクシ視する。餓鬼界の餓鬼というのは、水を飲もうと思ってもオノレのことしか頭にないから水がすぐに蒸発してしまう。
「社会に繋がっていない。どこでも良いから働きなさい。介護がいい。人手がないから誰でも受かる、働ける。」
渇いているアンタにアドバイスくれた坊さんのくれた「水」が飲む前に蒸発してしまう仏教の餓鬼界の喩えとはまさしくあなたの事だと思わんか。
悪意で受け取るから屈曲したものの捉え方になる。
善意で受け取らんかい!
毎月タダでアンタの相談にのってくれた坊さんを恩義にも感じず、自分中心な正義の剣で相手を切りつけ、しかも鬼の首をとったかのようにここで公開処刑か。アンタは自分のコトしかないのだ。自分だけは正しいと僧侶に世話になっておいて坊主の悪口言うとる、こすからい自分のコトしかない生き方を愚かしいと思わんのか!だから坊さんの言葉を聞いて❝儲けた・稼いだ❞なんて発想になる。僧侶の話聞いて❝儲けた❞だと?(-""-)その腐った儲け主義、自己愛中心、自己中心的な心を捨ててからここに来い。教えを頂いたら社会や世間にせい。自分だけ儲けて布施行、還元、回向をしない泥棒な自分を恥じろ!って感じですか?♡(*´▽`*)喝レベル20%です♡

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

なるほど稼ぐ、ですか。

 こんばんは。「稼ぐのはお金だけじゃない」、なかなか鋭い見方だと思いますね。辞書を見ていないのではっきりしませんが、たしかに「自分の何かを差し出して、それへのリターンを受け取る」という感じですね、稼ぐというのは。そして人生の学びというのは、たいがい「自分の(辛かった)経験」を経ないと得られないような気がします。「傷つきたくない。けど、こうなりたい。世の中を知りたい。幸せになりたい」というのは、言わばお小遣いせびっているようなものなのかも。
 そしてね、彼のお坊さんの言うことも分かるのですよ。息子が全く勉強してなければ、「やれよ」と言いますけれど、一転猛勉強を初めて睡眠時間2時間!とかになったら「やめろよ」って言いますもの。「良い案配でやれよ」って。
 彼の言葉で一貫しているのは、やはり「過去より今。今に繋がる将来に思いを馳せよ」ということでしょう?彼が「介護」と言ったのは、「何でもいいんだが…」という軽いイメージで言っただけ。知らないまま言っただけ。憤慨してもいいけれど、彼の言いたかったことの反論にはならない。「斜め上から反論きた!」という感じでしょう。もしあなたが改めて「フルで働いて、月給数万円」の仕事に就いたとしたら、やっぱり「良かったね」と言うと思いますよ。職場は、お金を貰うだけじゃない。そこにいる人(自分と価値観の違う人)に触れ、自分の価値観を広げてくれる可能性のある場所だから。そして時には、誰かに喜んで貰う可能性もあるから(かなり低いですけど)。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

あなたの言われる事が正しいと思いますよ。
働くとは傍(はた)を楽(らく)にすることです。
どこかの誰かの為に、広く言えば社会の為に尽くすことです。また、その過程の中で自分自身を成長させることも大切です。決してお金の為だけではありませんよね。

日頃良い回答がなかなかできない私としては、ぴょんこさんに喝を入れられた気がしましたよ。ありがとうございます。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

聖章 様
ご回答、有り難うございます。
渇を入れられた、なんて滅相もございません。私に「渇」をじゃんじゃん入れて下さい。未熟な私に。

佐藤 様
「過去より今、今に繋がる将来に思いを馳せる」
私、自分の考えが間違っていました。でも、もうお顔を見て「ごめんなさい。」って言えないんです。私、面倒臭いから愛想をつかされて。
ごめんなさい。
佐藤様、気づかせて頂けて嬉しいです。
有り難うございます。

安穏寺 丹下 様
本当に本当に有り難うございます。
ずっと心の中に雨が降っていて、なのに潤うことなく渇いています。だから「カツ」も「喝」ではなく「渇」になってしまったのかもしれません。
丹下様から頂いた御言葉を繰り返し読んで読み返して涙がでました。きつい御言葉だから、の涙ではございません。できない自分が悔しくて逃げたくて「ひとのせい」にして「自分を正当化」したかった愚かさ、弱さを実感していたから「見ろ! お前のしている事は、こういう事だ!」と取っ捕まえて欲しかった。

いい歳をして情けないです。

だからと言って「私、情けない」と嘆いていたところで、です。
毎月、私を受け入れてくれたお坊さんに、丹下様にハスノハのお坊さんに「うん」と頷いてもらえるようになりたい。

「私はここだよ!」と手を振るかわりにピカピカ✨に光ってみせたいです。クチだけにならない様に丹下様にお約束させてください。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ