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身体的弱者と仏教

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キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。

仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。

1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか?

またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。

2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか?

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道修行は、スタイルではなく、仏道修行になっているかどうか。

仏道修行は誰でも行ずることができます。
頭の働きを手放しにすることが、仏道修行の肝要だからです。
修行は念仏、読経、坐禅などでなくても、自己を手放しにできる行・作業であれば台所仕事でも何でも仏行。
ヘレン・ケラーのように見る、聞く、話すことすらご不自由でも、感ずる、居るという何かを「修」する事はできるからです。

お釈迦さまは、比叡山や高野山や永平寺などでなければ駄目とは言っていません。
弟子たちは、インドの名も無き地で激しい修行なんぞせずにみな悟りを得た。
「何を如何にするか」が問われているだけです。
修行は時、所、人を選ばず。
「今、ここにおいて、如何に為すか」が道場です。山の中に道場があるのではありません。
念仏、坐禅、写経、滝行、護摩焚き、阿字観…等でなければいけないということはありましょうか。
どんな行をしていても、五感は働かせています。
今ものがみえている、聞こえている。
それも❝シュ❞ 修・行です。
私見が主軸でなければ、行の修(おさめ)です。
思いが混入すれば、草一本抜くにせよ私的な価値観が加わりますから、たとえ僧堂にあっても修行にはなりません。
はたからみれば立派な姿で、懸命に修行しているように見えても、主観、私見でものを見ているうちは仏道修行ではない。
自我の見解から離れていないからです。
仏道修行は仏道修行のスタイルを行ずることではありません。
今、ここで、何をしていても、私見を離れて仏道修行に❝させる❞ことが大事なのです。
見る、聴く修行もあります。
あなたにとっての今の修行は、私の言葉をあなたの勝手な解釈を付け加えずに読むという、正見という修行がある。
思いをアレコレ働かせずに、ちゃんと私の申し上げる所の趣旨・薬効成分を受け取っていただくこと。
反発、私的見解、主観的判断をもって観れば、修行にはなならず、薬効成分もゼロ。
主観を交えない人が読めば、ちゃんと真意が伝わる。
その人は、読む修行がちゃんとできた事になる。
ところが人の多くは、解釈を勝手に加える。だから修行にならない。
ただ、見る。
ただ、聴く。
ただ、行う。
ただというは、人間の私的見解を離れた心(仏心)です。
それがちゃんとできれば、僧にも指導僧にもなれます。
まず、ただ、見る、聴く、居れる人になってみましょう。
これぞ仏道の基本にして究極だからです。
追伸 勿論可能です。

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丹下覚元(たんげかくげん)
かくげん和尚の電話おなやみ相談  📞08020659278 そのモ...

仏道には「出家」と「在家」があります。

「出家」の仏道は、自己を高め、徳を積み悟りを目指すものです。
俗から離れ、家庭を捨てて、仏道に専念する必要があり、肉体的にも精神的にも健康であることがとても大切になってきます。
修行者を守る為に薬師如来様という仏様もおられますね。

その一方で「在家」の仏道もあります。
「在家」の場合、出家をしないまま悟りを目指すことができます。
今日の日本仏教の場合、ほぼ全ての宗派が在家と言えるのだと思います。
浄土真宗はその最たるもので、行なうことは「阿弥陀如来に任せる」なので、誰でも大丈夫です。
仮に末期のガンで今まさに死にそうな人でも大丈夫です。
誰にでも間に合う仏道です。
浄土真宗の場合、悟りを得る時は臨終と同時ですから死ぬことがそのまま成仏といえます。

※死んだ人を「ほとけさん」と読んだりするのは浄土真宗の教えです。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...

質問者からのお礼

丹下 覚元様
仏道修行の根底にあるものを明快にわかりやすく、インパクトのあるお言葉でご説明いただきありがとうございました。主観・私見でものを見ているうちはどこにいても何をしていても修行になりえないということ、毎日の生き方次第でどのような状況下にあってもどこにいても修行ができるというのは確かに本当にその通りだと改めて実感いたしました。

ただし、私が知りたかったことのひとつは、現実社会の出家するという行為についてで(在家出家ではなくいわゆる僧職を目指す方)、精神はしっかりしていて健常者とかわらないにも関わらず身体的には弱者に属するひとが僧職につくことが実際には可能であるのかということです。在家ではなく一生の仕事として僧職につきたいと思った時に、身体的障害があることが仏教界ではマイナスに働き、志す前からそのチャンスすら与えられないのかどうか。キリスト教では車椅子でも牧師になれます。仏教ではどうなのでしょうか。

釈心誓 様
浄土真宗が末期のガンのひとにでも在家出家という形で道が開かれているというのは知りませんでした。別け隔てなくどんなひとでも阿弥陀如来を信じることによって救われるということは私が知っている中でもある意味で究極の救済かもしれません。

でも現実的な浄土真宗の僧職につきたいと願う身体的弱者が存在した場合、在家ではないいわゆる僧職につくための出家は彼らに許されるのでしょうか。道はあるのでしょうか。

追伸:
身体的弱者で身体的なハンディ以外は健常者と同じというひとが、ただ身体的な理由で
僧職につくことができなければそれは私にとっては違和感の残る社会といわざるをえませんが、
日本ではそういったことにあまり意義を唱えるようなことはないのでしょうか。

「仏教全般」問答一覧

仏教とは?

こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。

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最後の言葉「ありがとう、また会おう」

長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

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初めて知った事に対して、怖いです

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?

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