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身体的弱者と仏教

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有り難し有り難し 25

キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。

仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。

1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか?

またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。

2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか?

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏道修行は、スタイルではなく、仏道修行になっているかどうか。

仏道修行は誰でも行ずることができます。
頭の働きを手放しにすることが、仏道修行の肝要だからです。
修行は念仏、読経、坐禅などでなくても、自己を手放しにできる行・作業であれば台所仕事でも何でも仏行。
ヘレン・ケラーのように見る、聞く、話すことすらご不自由でも、感ずる、居るという何かを「修」する事はできるからです。

お釈迦さまは、比叡山や高野山や永平寺などでなければ駄目とは言っていません。
弟子たちは、インドの名も無き地で激しい修行なんぞせずにみな悟りを得た。
「何を如何にするか」が問われているだけです。
修行は時、所、人を選ばず。
「今、ここにおいて、如何に為すか」が道場です。山の中に道場があるのではありません。
念仏、坐禅、写経、滝行、護摩焚き、阿字観…等でなければいけないということはありましょうか。
どんな行をしていても、五感は働かせています。
今ものがみえている、聞こえている。
それも❝シュ❞ 修・行です。
私見が主軸でなければ、行の修(おさめ)です。
思いが混入すれば、草一本抜くにせよ私的な価値観が加わりますから、たとえ僧堂にあっても修行にはなりません。
はたからみれば立派な姿で、懸命に修行しているように見えても、主観、私見でものを見ているうちは仏道修行ではない。
自我の見解から離れていないからです。
仏道修行は仏道修行のスタイルを行ずることではありません。
今、ここで、何をしていても、私見を離れて仏道修行に❝させる❞ことが大事なのです。
見る、聴く修行もあります。
あなたにとっての今の修行は、私の言葉をあなたの勝手な解釈を付け加えずに読むという、正見という修行がある。
思いをアレコレ働かせずに、ちゃんと私の申し上げる所の趣旨・薬効成分を受け取っていただくこと。
反発、私的見解、主観的判断をもって観れば、修行にはなならず、薬効成分もゼロ。
主観を交えない人が読めば、ちゃんと真意が伝わる。
その人は、読む修行がちゃんとできた事になる。
ところが人の多くは、解釈を勝手に加える。だから修行にならない。
ただ、見る。
ただ、聴く。
ただ、行う。
ただというは、人間の私的見解を離れた心(仏心)です。
それがちゃんとできれば、僧にも指導僧にもなれます。
まず、ただ、見る、聴く、居れる人になってみましょう。
これぞ仏道の基本にして究極だからです。
追伸 勿論可能です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏道には「出家」と「在家」があります。

「出家」の仏道は、自己を高め、徳を積み悟りを目指すものです。
俗から離れ、家庭を捨てて、仏道に専念する必要があり、肉体的にも精神的にも健康であることがとても大切になってきます。
修行者を守る為に薬師如来様という仏様もおられますね。

その一方で「在家」の仏道もあります。
「在家」の場合、出家をしないまま悟りを目指すことができます。
今日の日本仏教の場合、ほぼ全ての宗派が在家と言えるのだと思います。
浄土真宗はその最たるもので、行なうことは「阿弥陀如来に任せる」なので、誰でも大丈夫です。
仮に末期のガンで今まさに死にそうな人でも大丈夫です。
誰にでも間に合う仏道です。
浄土真宗の場合、悟りを得る時は臨終と同時ですから死ぬことがそのまま成仏といえます。

※死んだ人を「ほとけさん」と読んだりするのは浄土真宗の教えです。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

丹下 覚元様
仏道修行の根底にあるものを明快にわかりやすく、インパクトのあるお言葉でご説明いただきありがとうございました。主観・私見でものを見ているうちはどこにいても何をしていても修行になりえないということ、毎日の生き方次第でどのような状況下にあってもどこにいても修行ができるというのは確かに本当にその通りだと改めて実感いたしました。

ただし、私が知りたかったことのひとつは、現実社会の出家するという行為についてで(在家出家ではなくいわゆる僧職を目指す方)、精神はしっかりしていて健常者とかわらないにも関わらず身体的には弱者に属するひとが僧職につくことが実際には可能であるのかということです。在家ではなく一生の仕事として僧職につきたいと思った時に、身体的障害があることが仏教界ではマイナスに働き、志す前からそのチャンスすら与えられないのかどうか。キリスト教では車椅子でも牧師になれます。仏教ではどうなのでしょうか。

釈心誓 様
浄土真宗が末期のガンのひとにでも在家出家という形で道が開かれているというのは知りませんでした。別け隔てなくどんなひとでも阿弥陀如来を信じることによって救われるということは私が知っている中でもある意味で究極の救済かもしれません。

でも現実的な浄土真宗の僧職につきたいと願う身体的弱者が存在した場合、在家ではないいわゆる僧職につくための出家は彼らに許されるのでしょうか。道はあるのでしょうか。

追伸:
身体的弱者で身体的なハンディ以外は健常者と同じというひとが、ただ身体的な理由で
僧職につくことができなければそれは私にとっては違和感の残る社会といわざるをえませんが、
日本ではそういったことにあまり意義を唱えるようなことはないのでしょうか。

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