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性格を変えたい。

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ほんの少しの事で悩んでしまいます。
しかも敏感に感じ取れる部分が多く、人の色々おっしゃる些細な事でも覚えていて悩む事があります。
要は私が気にしなければ良い事があります。
でも受け流し方をほんの少し変えるだけで良い事もありますし、まず心の在り方を変えたいのですがどうすれば良いですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が 自分で 自分を 損ねているのです

こんにちは。凹んでも凹んでも、お腹だけ凸のタンゲです。
disられることや、人から悪く言われることが怖い。
あなたに足りないのは聴き方(自分への効かせ方)です。
正しく、直「聞け」ばよいのです。
結論:直聞き(チョクギキ)すべし。(^<^)
そこで言われたことは、そこで終わらせreplayしない。
勝手に深い意味やネガティブな意味も添えない。
実は、本当は、人間、人から何を言われてもヘーキな生き物なんです。
バカだアホだマヌケだ言われても、実はその言葉が発生した時点で それ自体には人を傷つけるものはない!と捉えるのが仏陀の受け止め方なのです。

そういういったdisり言葉を、聞いた、受けた、RECした直後、レコチョク!
即座に自分を傷つける悪い意味を添えて機能さ(効か)るから凹むのです。
その言葉を聞いた直後の自己流解釈こそが犯人なのです。
単に注意をしてくれたことも、自分が責められた(ノД`)・゜・。とか思って効かせているのでしょう。nono
言葉は聞いた、受けた時点では善悪明暗、何の意味も持っていません。
自身に悪く効かせる事で喪失感 疎外感 劣等感 妄想 自責 総じてネガティブ・イメージを生み出すのです。 
そこを何度もreplayして追い打ちをかけているという悪いクセがあるだけですのよ、アナタ。自分が自分でreplayしているだけなのです。
もう火入れのいらない完成した煮込み料理に何度も火を加えて焦がすようなことはやめましょう、焦げるズラよ。
性格を変えるのではありません。
一言でいえばネガティブ反応を無くすだけで良いのです。

「丹下のばーか・うざー、氏ね」(゚д゚)ヒド! → (´-ω-`)シュン
自分が、自分で自分を突き落してその言葉と同化させているから、苦しい。

ことば、事実に罪はありません。
「丹下のデーブ」(´-ω-`)アラ、ソーナンザマスノヨ オホホ
その通りなので否定しようもありません。

「丹下のデーブ」
その通りに受け止めればいいのです。
悪意を添えるから、自分に損ないが生じるだけです。

「丹下のデーブ」
…もういいよ。(´-ω-`)

言葉も事実も、その時点で、何も、損ねていない。
自分が傷つけていたと知ることです。
事の直後に凹むのは、ネガティブガスを出して自分を苦しめていた自分なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

受け流そうと思わない。

奈由さま
私も、人の噂とか、言われた言葉を何度も心の中で繰り返し、悩むことがあります。よくきもちはわかります。しかし、何か思いが出てきても、そこでストップ。それ以上追求しないことが大事なのではないでしょうか。目の前のことに思いを向けるという事でもいいのかもしれません。

悩んでいるときは、心ここに在らずで旅に出ているかのように、いまの目の前が見えなくなっていることがあります。だからこそ、目と鼻の先の今、何をしているのか、そこに集中するということではないでしょうか。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

何と言いましょうか…
その通りです

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