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やる、とやらない、ということ。 個性と自我について

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有り難し有り難し 14

こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。

やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。
これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。
これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。

相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。
自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか?

できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか?

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

バンジージャンプに行って、自分を投げ出す感覚を学ぶ。

自分が「自分」でありたいと固執するあまりに失うのが怖いのではないかと。
大事に取っておきたい自分があるからリミッターができる。
本当はそんな自分らしさなんぞは、どこにもありゃしない幻です。
イイトコロだけを切り取ったfacebookやラインのアップのようなものだと思うことです。イイトコロアップの前後もイイトコロでない状態も人間の真実。
そこも隠さずうち明かす勢いで、体裁よくみせたい自分の自我・エゴも打ち負かすことです。自分自分したOSがそこにベース的に作動している事を見抜くのです。
それは作った自分らしさを演出した自分の設定。それは嘘の自分、はからい、なんだと。
それが分かれば、あなたの質問自体すら手放しができる。
悟りが成就する。
人間24時間ずっと自分です。 
理想の自分らしいところ、外向けな自分でない時もある。
外の人たちに自分を良く見せようと「外面よしお・外面よしこ(仮名)」であろうとするから、裏表ができる。隠し事ができる。守るものができるのです。
仏行は、念仏、坐禅、写経、瞑想、滝行なんでもいい。
とにかく只管に「自分を事実にお預け・お任せすること」ですよ。
おそらくアナタは、質問のタイトル通り「やっていない・やれていない・なげ出せていない・おまかせできていない」だけです。判別屋さんです。
今日さっそく仏道修行らしい事でなくても、まな板でキューリ・ニンジンなどを切る際に、今までの切り方でないようにやってみることです。
するとそこには必ず発見がある。新しいものに出会う。
そうすると旧来の考え上の砂上の楼閣から脱皮する。
はじめて「今」をみることになる。
苦しみ深き人の100%は考えの上で我他我他やっている。だから苦しい。
自我ルール・自分ルール上でやっていても都合しか生まれない。
だから修行らしいスタイルでやっているようでも、自分レール上であるから仏行・仏の状態にならない。自分を立てて、のぞむことは人の行・人の状態に過ぎんのです。
ご安心ください。いくら坐禅や瞑想を深く行じようが自分が自分で無くなった人間はいません、この回答する男も変人ではありますが、何かが無くなっちゃったわけでもありません。
自我がある。結構なこと。
それを修行のエネルギー・材料に用いるのです。
一休さんも負けん気が強かった。だから悟りを成就したといわれています。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

謙虚な姿勢でいましょう

loutus-universeさま

私にお応えできる内容でないかもしれませんが、思うとことを記します。

自分の人生を生きるということは、自分を最優先にしてしまうということなのかと思います。そうすると自分が前に出てきて、仏さまのお導きでない生活になってしまうように思います。

常に謙虚に、しかし思いが起きてもそのままに、取り扱わない。ということではないでしょうか。

そうしたコツをつかんでいくと、坐禅をしている時だけでなく、日ごろの生活の中でも、我慢や、あきらめではなく、周りで起きていることを、取り扱わず、生活できると思います。決断する時は決断するわけですし、周りから見たら自分がなくなっているようには見えないのではないかと思います。心がなくなるわけではないですからね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

...やっぱり私にはムリかも... ... 
ご回答ありがとうございました!

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