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やる、とやらない、ということ。 個性と自我について

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こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。

やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。
これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。
これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。

相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。
自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか?

できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか?

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

バンジージャンプに行って、自分を投げ出す感覚を学ぶ。

自分が「自分」でありたいと固執するあまりに失うのが怖いのではないかと。
大事に取っておきたい自分があるからリミッターができる。
本当はそんな自分らしさなんぞは、どこにもありゃしない幻です。
イイトコロだけを切り取ったfacebookやラインのアップのようなものだと思うことです。イイトコロアップの前後もイイトコロでない状態も人間の真実。
そこも隠さずうち明かす勢いで、体裁よくみせたい自分の自我・エゴも打ち負かすことです。自分自分したOSがそこにベース的に作動している事を見抜くのです。
それは作った自分らしさを演出した自分の設定。それは嘘の自分、はからい、なんだと。
それが分かれば、あなたの質問自体すら手放しができる。
悟りが成就する。
人間24時間ずっと自分です。 
理想の自分らしいところ、外向けな自分でない時もある。
外の人たちに自分を良く見せようと「外面よしお・外面よしこ(仮名)」であろうとするから、裏表ができる。隠し事ができる。守るものができるのです。
仏行は、念仏、坐禅、写経、瞑想、滝行なんでもいい。
とにかく只管に「自分を事実にお預け・お任せすること」ですよ。
おそらくアナタは、質問のタイトル通り「やっていない・やれていない・なげ出せていない・おまかせできていない」だけです。判別屋さんです。
今日さっそく仏道修行らしい事でなくても、まな板でキューリ・ニンジンなどを切る際に、今までの切り方でないようにやってみることです。
するとそこには必ず発見がある。新しいものに出会う。
そうすると旧来の考え上の砂上の楼閣から脱皮する。
はじめて「今」をみることになる。
苦しみ深き人の100%は考えの上で我他我他やっている。だから苦しい。
自我ルール・自分ルール上でやっていても都合しか生まれない。
だから修行らしいスタイルでやっているようでも、自分レール上であるから仏行・仏の状態にならない。自分を立てて、のぞむことは人の行・人の状態に過ぎんのです。
ご安心ください。いくら坐禅や瞑想を深く行じようが自分が自分で無くなった人間はいません、この回答する男も変人ではありますが、何かが無くなっちゃったわけでもありません。
自我がある。結構なこと。
それを修行のエネルギー・材料に用いるのです。
一休さんも負けん気が強かった。だから悟りを成就したといわれています。

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丹下覚元(たんげかくげん)
かくげん和尚の電話おなやみ相談  📞08020659278 そのモ...

謙虚な姿勢でいましょう

loutus-universeさま

私にお応えできる内容でないかもしれませんが、思うとことを記します。

自分の人生を生きるということは、自分を最優先にしてしまうということなのかと思います。そうすると自分が前に出てきて、仏さまのお導きでない生活になってしまうように思います。

常に謙虚に、しかし思いが起きてもそのままに、取り扱わない。ということではないでしょうか。

そうしたコツをつかんでいくと、坐禅をしている時だけでなく、日ごろの生活の中でも、我慢や、あきらめではなく、周りで起きていることを、取り扱わず、生活できると思います。決断する時は決断するわけですし、周りから見たら自分がなくなっているようには見えないのではないかと思います。心がなくなるわけではないですからね。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...

質問者からのお礼

...やっぱり私にはムリかも... ... 
ご回答ありがとうございました!

「自分がわからない」問答一覧

自分の二面性に苦しんでいます

はじめまして。 私はいつも明るく笑顔で過ごし、年上には可愛がられ年下には頼られ、友人からも頼りにされるように努めております。 体が強くないこともあってよく周りの方々には助けていただいており、その結果様々なご縁に巡り会えました。 しかし、私はいつも人のご厚意を利用して自分の望む結果が手に入るようにしているだけだと物心ついた時から気づいてはおりました。 自分がなぜ人に優しくするのか、それは畢竟自分の為に他なりません。 自分の中には2つの自分が居るように思います。狡い自分とその状態を俯瞰して心を痛める自分。 恩義を売っておけばいずれこういう時に便利だろう、相手が求めているものは何か探って効率的に人望を集めよう。 体が強くないのは事実ですが、それさえも周囲の手助けを引き出せるよう仕込める自分が恐ろしいです。 冷静な時(平常心)は狡い方がいたって普通に活動しています。むしろ心がかき乱されたりする時にこそ、俯瞰して自分の実情を嘆いています。両方とも私であることに変わりはありませんが、余りに乖離しています。 そして生来、私は周りの人の助言が心に入って来ませんでした。私が相談相手になったときに相手にかける言葉の想定解の羅列に見えてしまうのです。 今はおそらく、俯瞰する力が強いのかと思います。神仏に額づいて許しを請いたい気持ち、罪悪感でいっぱいです。 相手が喜んでいる私を演じることが罪滅ぼしならば、後々利用しようとする心があってもそのまま演じていた方が良いのでしょうか...。 何か私を1つに纏める、軸のような言葉をいただけたらと思います。 そしてこんな私ではありますが、少しでも心安らかに暮らしていける方法などはありますでしょうか。 長々と失礼いたしました。何卒よろしくお願いします。

有り難し有り難し 16
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過去の自分が怖いです

過去の嫌な記憶がフラッシュバックしてきて辛いときに、このサイトを見つけて何かのヒントになればと思い、相談させて頂きました。 私には、半年程前に強迫症の症状がありました。主に加害恐怖です。誰かを傷つけてしまった、SNSで誹謗中傷をしてしまった、など誰かに嫌な思いをさせてしまったと感じることがありました。当然そんな事はしてませんし、したいとも思いません。ですが、妄想が鮮明で、本当に自分がしたかのように感じたのです。もしかしたら、無意識のうちに罪を犯しているのかもしれないと考えるときもありました。 そんなことを考えているときはとても辛くてでも、誰かに相談できることではなくて、不安が去るのをじっと待っていました。数日後には不安は消えて、日常を送り、また別の不安で辛くなるという繰り返しの日々を送っていました。 当時、上京をして1人暮らしをしていたのですが、情緒が不安定になったり、うつ気味になったり、専門学校で辛いことがあったりと、色々重なって学校を辞めて実家に帰ることにしました。それからは体調も良くなり、次第に元気がでて回復してきて、新たに、勉強を始めて、いずれは大学か別の学校に行きたいと考えています。 ですが、冒頭にも書いたのですが、当時の辛いことがたまにフラッシュバックしてきす。一度は自分の中で落ち着いたことなので、そのまま流せることもあるのですが、何回かはすごく辛く感じることがあります。本当に罪を犯していると感じるときもあります。分からないので、実際に起きてから考えようとしているですが、私は、間違っていますでしょうか? 長くなってしまい、すみません。返事を頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 2
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「超客観的」な感覚になってしまいます

もし、何か関連するものをご存じであれば教えてください。 まず、現在の私の状況です。 ここ何年かずっと続く感覚があります。それは自分のあらゆる「主体」という感覚が薄れているような感覚です。 自分のあらゆる行動、容姿がさも他人であるかのような感覚になります。 今こうして文章を打っているときも、脳波で動くロボットアームを動かしているみたいです。 飲食は車にガソリンを入れているような感覚だし(味覚はちゃんとあります) 鏡に映る自分を見れば、一瞬「誰だ?」みたいな気分になります。 郵便物の宛名で書かれた自分の名前はたまに誤配送を疑うくらい知らない人の名前に感じます。 などなど、そのように基本的にあらゆる自分の状態を超客観的(?)な視点で見てしまいます。 肉体だけ精神と切り離されたような、逆に言えば私の精神だけが世界から切り離されたようななんとも言えない感覚です。 一部の感覚は他人にも当てはまります。 食事や睡眠をとる他人を見ていると、好きでも嫌いでも気持ち悪いとかそんなものは一切なく「あ、食べてる(寝てる)」と不思議な感覚で、フラットに眺めてしまいます。 思考する自分に対しては「主体」としての意識はあるので、ただ肉体と精神が遠ざかっているようです。 距離としては双方それほど遠ざかっていないと思うので、2重人格とかそういったものにはならないと思います。 そういった状況を受けて、さらに最近変化してきたことがあります。 こういった感覚や状態は、俯瞰しているせいか精神の「凪」みたいな状態を招くことが多くなりました。 怒れば心拍数が上がり頭に血が上る感覚がありますがそれも俯瞰 恥ずかしくなれば顔が赤くなりますがそれも俯瞰 昔よりずっと怒りなどの感情を抑える事ができるようになりました(肉体的反応は制御できませんが) 普段はしばしば瞑想をするくらいですが、特にちゃんとトレーニングを積んだわけではありません。 肉体と精神が離れる。そんな感覚をずっと抱えていただけです。 とにかく自分の中でなぜ、どのようにこうなったのかうまく説明がつかない状況なので、もし「それこういったものでは?」となにか引っかかるもの、ご存じのものがあれば教えていただけないでしょうか? 長くなってしまい恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 20
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自分の状態について知りたいです

はじめまして。あまり当てはまるカテゴリがなく、こちらにさせてもらいました。ご回答いただきたく存じます。よろしくお願いします。 私は長らく精神疾患と難病を患っています。精神疾患は色んな影響があり、ちょっとした心の問題だったのが服薬した薬や医師の影響で脳の問題とされる病に変異しています。 なので、生きることが本当に困難でした。ただ、最近になって私はなぜこんなにも苦しんでいるのかと全てわかりました。18年前、好きだった子にいやがらせをされたことで私は人一倍繊細だったこともあり、心が死んでしまったように悲しく辛かったのです。それが全ての始まり、その子が全て悪いのではないですが間違いなく、私がおかしくなっていった始まりでした。 私は私のために、SNSにいたその子にメッセージを送りました。18年間、忘れたくても忘れることができなくて夢にまで現れるような子でしたが何も恐れはありませんでした。私は私が納得したかったんです。 謝ってほしくもなく、償いもいらないが私が長らく苦しんだことを伝えたかったんです。君がとっくに記憶からないことで、私は辛かった。何度も死のうと思った、やりたいことも諦めてきた。それを知ってくれと。返事はないだろうと期待してなかったのですが、意外にも返事が返ってきました。謝られましたが何も思いませんでした。 私が私自身の苦しみに気がつけず、もがいている間その子は自分の夢を叶えていました。私は夢とか全部諦めて君とは真逆の道を歩いた、と言ったところ、自分は周りの奴らが寝てたり遊んでる時に練習ばかりで我慢してたとかやりたいことをしてるのは我慢したからだ、まだ叶えてる途中だと、少し腹立たしそうな、そういう反応が返ってきました。 でも、私は何とも思わなくて。だからなんだろう、と何も響くものがありませんでした。なので、君の言葉は読んでも何も響かないし怒りも感じない。謝られても嬉しくも喜びもないんだ、と伝えました。 私はこの自分の感情が不思議です。たしかに昔は憎かったはず、もっと相手に怒りをぶつけたりするのかと思ったら何にも感じなくなってました。その人に何を言われても、心を素通りしてしまいました。 仏教の世界ではこういう状態が何かわかりますか?私は無関心とは違う気はします。怒りもありません。ただ、文字のままにしか受け取ることができずなんの感情も湧きませんでした。

有り難し有り難し 16
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死への考え方が突然変わりました

初めて相談をさせていただきます。 表題の件、今までの自分にない考え方で、どう消化すべきか分からないので、考えとの付き合い方を教えていただきたいです。 ふと、死んでもいいなあと頭に浮かぶようになりました。嫌なことがあったわけではないのです。自死を選ぶというよりは、寝る前に明朝目覚めなければいいのに、と毎日考えるようになりました。 これまでは、自分が死ぬなんて考えられない、自分は老衰でしか死にたくない、自分にとって死ぬことは最大のネガティブという考えでした。 私は普段から楽天的で、物事をあまり深く考え込むことはせず、どちらかというとポジティブな発言が多い方だと思います。 ただ、30歳を目前にして自分の将来像が描けず、結婚したいができるのか、今のままの仕事でキャリアを築けるのか、自分は何がしたいのか…などと考え、一人で漠然とした不安に悩むこともあります。考えても仕方がないことなので、悩んでもその日のうちに区切りをつけて翌朝にはけろっとしていられるのですが、数週間後にまた同じ事を考える繰り返しです。 それでも、そこそこ順調な生活を送っており、やりたいこともたくさんあるし、そのための準備や勉強もしています。手探りですがよりよい将来の自分を目指して楽しく前向きに取り組んでいます。 そんな中で、今死んでもいいなあと思っているので、私にとってのポジティブとネガティブが同居している状態が、どうにも気持ちが悪いのです。 この2つの異なる考えとどう付き合うのが良いでしょうか? ご教示いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 19
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