回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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✨新念✨ に 信念を。
人間は常に「新しい念✨」がシャボン玉のように生まれています。
その念が生まれた時には、もう前の思いはありません。
悲しかったこともつらかったことも、新念がキレイに流し去ってくれます。
ブレた時は新たな念を思い起こし、そこにこの真実をみるべきです。
ニワトリですら3歩歩けば忘れると言います。コケー🐓
人間は一歩歩むだけで、いや、一念起こすだけで、もう前の事を離れています。
新念が、全自動で過去の一切を謹我慎念してくれるのです。
仮に何度同じことを考えたにしても、その思いは常に新しい「念」です。
念とは「今の心」と記します。
願わずとも頼まずとも新しい念が次々に起こってくれています。
その時、あなたはもう、ブレた、とか何かを損ねたということを離れているはずです。
思いに上塗りは本当はありません。
いつもいつも新念です。
ただし、自分が何かを考えようとすると思いは、どんどん上塗りされて行きます。
それは自分の自我、我、エゴの為すわざです。
自然に起きてくる思いは、第一次発生時点においては純粋無垢な新念です。
大みそかはもう終わり新年を迎えました。
新年も一日の塗りたくりではありません。
日にちが重なっていくのではなく、今日は今日という、まっさらな真新しい新年です。
そこに信念をもつことです。
事実はいつも「ま」新しい。
今日は常に「ま」新しい。
今も常に「ま」新しいのです。
昨年はトサカに来ることがあっても、もう3歩🐓歩いて忘れたはずです。
思いというものは幻、コケ、虚仮なるものです。
さぁ、目の前をみてください。
そこに真新しいまっさらな世界が来たっています。それは虚仮(コケ🐓)なるものではないはずです。
想念の世界はコケ🐓虚仮です。たったいまの「ま」新しい事実は、真実です。
そこにこそ信念をもって、常に「ま」あたらしの心に安んじていてください。
信とは「まかせる」という意味があります。
もんししゅう
こんにちは。はり。と言われて「刺繍」を思い出しましたよ。
でも、仏教で「もんししゅう」と言えば「聞・思・修」を指します。つまり「聞き、考え、実践する」ということです。信念というものも、いきなりパッと浮かんでくるものではないでしょう。何かを聞き(受け)、自分なりに解釈し、実行して身につける。そのサイクルが「信念」と呼ばれるものを形作っていくのでしょう。仏教の教えは、その種、最初の一歩になると思います。
貴女のいう「ブレ」は修の段階で起こります。揺さぶられていくから、落ち着くべきところへフィットして落ち着いていく。最近の洗濯機は、最初に洗濯物を揺するのですね。そうすると嵩が少し減り、洗濯槽の中で物が落ち着くのが分かります。「ああ、自分ブレてるなぁ」と思ったら、洗濯機を覗いてみてはいかがでしょうか。
本年も楽しみにしています。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
【もんししゅう】初耳です。【はり。】ははりきっていこうの【はり。】です。
お返事ありがとうございます。
ありがとうございます。
【コケー】のメッセージ可愛かったです。
お返事ありがとうございます。