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信念

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有り難し有り難し 52

新年迎えた。信念をもってぶれずにやっていきたい。よくぶれるけどね(爆)

はすのはの皆さんにとってよい年となりますように。はり。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

✨新念✨ に 信念を。

人間は常に「新しい念✨」がシャボン玉のように生まれています。
その念が生まれた時には、もう前の思いはありません。
悲しかったこともつらかったことも、新念がキレイに流し去ってくれます。
ブレた時は新たな念を思い起こし、そこにこの真実をみるべきです。
ニワトリですら3歩歩けば忘れると言います。コケー🐓
人間は一歩歩むだけで、いや、一念起こすだけで、もう前の事を離れています。
新念が、全自動で過去の一切を謹我慎念してくれるのです。
仮に何度同じことを考えたにしても、その思いは常に新しい「念」です。
念とは「今の心」と記します。
願わずとも頼まずとも新しい念が次々に起こってくれています。
その時、あなたはもう、ブレた、とか何かを損ねたということを離れているはずです。
思いに上塗りは本当はありません。
いつもいつも新念です。
ただし、自分が何かを考えようとすると思いは、どんどん上塗りされて行きます。
それは自分の自我、我、エゴの為すわざです。
自然に起きてくる思いは、第一次発生時点においては純粋無垢な新念です。
大みそかはもう終わり新年を迎えました。
新年も一日の塗りたくりではありません。
日にちが重なっていくのではなく、今日は今日という、まっさらな真新しい新年です。
そこに信念をもつことです。
事実はいつも「ま」新しい。
今日は常に「ま」新しい。
今も常に「ま」新しいのです。
昨年はトサカに来ることがあっても、もう3歩🐓歩いて忘れたはずです。
思いというものは幻、コケ、虚仮なるものです。
さぁ、目の前をみてください。
そこに真新しいまっさらな世界が来たっています。それは虚仮(コケ🐓)なるものではないはずです。
想念の世界はコケ🐓虚仮です。たったいまの「ま」新しい事実は、真実です。
そこにこそ信念をもって、常に「ま」あたらしの心に安んじていてください。
信とは「まかせる」という意味があります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

もんししゅう

こんにちは。はり。と言われて「刺繍」を思い出しましたよ。
でも、仏教で「もんししゅう」と言えば「聞・思・修」を指します。つまり「聞き、考え、実践する」ということです。信念というものも、いきなりパッと浮かんでくるものではないでしょう。何かを聞き(受け)、自分なりに解釈し、実行して身につける。そのサイクルが「信念」と呼ばれるものを形作っていくのでしょう。仏教の教えは、その種、最初の一歩になると思います。
貴女のいう「ブレ」は修の段階で起こります。揺さぶられていくから、落ち着くべきところへフィットして落ち着いていく。最近の洗濯機は、最初に洗濯物を揺するのですね。そうすると嵩が少し減り、洗濯槽の中で物が落ち着くのが分かります。「ああ、自分ブレてるなぁ」と思ったら、洗濯機を覗いてみてはいかがでしょうか。
本年も楽しみにしています。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

【もんししゅう】初耳です。【はり。】ははりきっていこうの【はり。】です。

お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。

【コケー】のメッセージ可愛かったです。

お返事ありがとうございます。

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