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餅餅

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今日から仕事はじめます。例え1日でも仕事を休んだ後は正直怖いです。職場に自分の居場所があるか不安です。緊張感はんぱないです。空回りしたくないです。

お正月は毎日お餅2個食べてたんで今日からキャベツ食べようと思います。もちもち肌に憧れてます。もっと可愛くなります。

ぼうさんもお餅食べましたか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いってらっしゃ〜い

久しぶりだと緊張しますよね。居場所は大丈夫。いる場所がどこでもあなたの居場所です。安心して行ってきてください^ ^
餅食べましたよ〜。三が日毎朝お雑煮です。4つずついただきました。お餅は腹持ちがいいですね。なかなかお腹が空きませんでした。
今日からお檀家さんのお宅にお年始回りです。お互い頑張りましょう!!

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

キモチのモチよう

この回答をみているという事は、今頃あなたは今日の初仕事を無事にやり過ごしてお昼休みかご飯のキャベツを丸かじりしている頃でしょうね。
残念ながら母さんはサイタマなのであなたがどんな風にキャベツ食べているか知ることはできません。
(母さんかい)
母さんももちを食べ過ぎてベイマックスのようになっています。キャベツは一口大に刻んでビニール袋に入れて叙々苑のドレッシング(緑)でシェイクすると美味しくてとまらなくなるわよ。
でも叙々苑のドレッシングは高いからごま油と、コショウと塩と少量のにんにく・醤油でそれっぽくなるわよ。
不安な気持ちが出た時も、それを『きっかけ』にするのです。
不安が出た時、その不安をあえてモチいて正しく真実に目覚めるように転用しましょう。
・その思いは、まだ現実になっていません。
・現場ではありません。
・実態はありません。
「これは本当だろうか」「思えたからって本当にそうなっているだろうか」「今ココはその現場だろうか」「単に私の妄想のモチ(気持ち)が膨らんでいるだけではないだろうか」
モチのようにいくら膨らんでも、モチも気持ちも膨らんだところの中身はスカスカで実態はありません。
それが破れるまで自分の想念と事実の違いを見極めてみましょう。
昨年は、それが不安な思いが膨らんでそれに振り回されていましたが、今年はいくら大きく膨らんでみえたモチも妄想もその実態は、中身がない、実態がないという事をしっかり見極めるようにしましょう。
キャベツも大きく見えてもスカスカな場合があります。キャベツ選びももって重さを確認するように、中身があるものを相手にする様にしましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

職場のひとと一緒に初詣に行って商売繁盛祈願してきました。

お返事ありがとうございます。

ありがとうございます。

キャベツおいしく食べます。しっかり確認します。

お返事ありがとうございます。

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