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いつもと違う日

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有り難し有り難し 19

今日は今一人でゆっくりしてます。

いつもいるのが当たり前みたいな感覚がついていたようで、いないとしんみりしています。
blogでたまに近況を知らせてくれるみたいですが。

実はスマホの充電器がダメになって仕方なしに電気屋さんで買ってきましたが、昔は家電しかなかったのに連絡ひとつも困るし大変だと思いました。

金曜から日曜まで普段当たり前になってしまっていたものが当たり前じゃない日だと思って色々身の回りを見てみようと思います。

普段あまり出歩かず、外泊ももうずっと旅行すら無かったしやったことのない一人カラオケかネカフェ体験もいいかもしれないと思いました。
私にはちょっと勇気がいりますが(^-^;
体が動いてくれるといいなと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

バラバラでいっしょ

らら様おはようございます。

お子様がお家を旅立っていかれたのでしょうか?それとも旅行ですかね?しばしの間お一人での日々となるのですね。

あたりまえの日常があたりまえでなかったと気づかされるのは大きいですね。
そして私の周りの日常だけでなく、私もまたあたりまえではない「いのち」をいただいているのだと気づかされると、日常も私も感謝にあふれたものとなるかもしれません。

感謝すべきことを感謝できない私が感謝させていただけることが有難いことです。

せっかくですからお一人様ライフを楽しみましょう!!

心が動けば体も動く、体が動けば心も動くかもしれません。

もちろん無理はせずに、

体力はまだあっても心がしんどいなあと感じれば休み、気力はあっても体が疲れているなあと感じても休みましょう。

いきなりですと心も体もびっくりするかもしれませんからね。

仏説無量寿経というお経には

原文「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、行に当たり苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし。」

訳「人は世間において愛欲の中にさ迷いながら生活しているが、結局は独り生まれて独り死に、独りでこの場を去り独りで次の場へ来なければならない。すなわち人はそれぞれの行いによって苦楽の入り混じった境涯から逃れられない。その責任は自分自身が負わなければならず、誰もこれに代わってくれるものはない。」

とあります。

寂しく、悲しく、そして厳しい言葉ですが「誰にも代わることのできないこの世にただ独りの私」だからこそ尊く、そして同じく独り尊い周りを認めて共に生きていけるのです。

バラバラでいっしょ

ということですね。「お一人様」はそんな仏様の目からみた私といういのちの姿を感じる機会となるかもしれません。

「日常」にも「私」にもアンテナを張ってみましょう。

「いつもと違う日」

いい言葉ですね。私にも響きました。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

違う事をした方が刺激になって人生が変わります

縁という言葉があります。
この世の全ては因縁生といって、人間の願いや期待とは別に様々な因と縁とが合わさって今の事が心身の上に起こっているのです。
今までの縁が、ほとんど毎日変わらないものであったとしたら、毎日は本当に単純な日々です。
それはそれでよいのです。
新しいことを始めますと、それはそれで気持ちが転じていきます。
新しいことが縁になって、因縁生、結果が変わるのです。
故に、自分をより良く変えて行くのは自分が自分自身に与える縁によって大きく変わるのです。
ぜひ、新しいことをどんどん取り入れて行ってください。
素晴らしいことです。
私は家族といても、私は私を生きています。
何かを頼まれても、それをやるのは私です。
誰かを生きている訳ではありまセン。
何か頼んだらお礼を言われないと気が済まない人には深々とお礼を言います。
ですが、私は大それたことをやっても、自分がたんたんとそれをやっているだけなので、お礼を言われても言われなくても、さほど変わりません。
そういう生き方は軽やかで楽です。
頭、想念で生きているというより、実質、事実で生きているという感じです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

吉武文法様
おはようございます、ご回答ありがとうございます。

子供はいつも辛いことを聞いてもらったり一緒に買い物にいったり遊んでくれる友達の家に泊まってアイドルのライブに参加してくるそうで今日を楽しみにしていました。

バラバラだけど一緒。
一人一人の価値を仏様は認めてくださっているという事を噛み締めながら私は私で楽しい日にしようと思います。
こうやって気遣ってもらえてお陰さまで今日は元気です♪
ありがとうございます(^^)

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
毎日同じ日が平凡に過ぎていくのも大事なことですが変化もやっぱり必要ですね(^^)

普段家からでないで変な考え事ばかりしてるから今日は何か違うことをやって実感しようと思います。

まずは今日は七草粥の日なのでお粥を食べて来ます(^^)

それから家中を一回り見渡してからカラオケ行くなりネカフェ行くなり他何かいいことないか探してみますね。
ご回答ありがとうございます(^^)

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