娘の死、その後
お世話になります。
娘が亡くなって3ヶ月。お墓が建ったので納骨をすることができますが、それが近いからかホンとに実感させられる気がして辛いです。
明るくいられたり、でも急激に甦りたまらなく寂しく苦しくなります。
家族で写ってる写真を見ると存在していたんだと思うのに苦しくなります。
何も考えなくても思いだしますが、自分の意思で最期の姿を思いだしたりします。
苦しいのに。
いつか、この気持ちから解放されるのでしょうか。
苦しいじゃなく笑って思い出せるときが。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
時には 「何もしない」を なさる事です。
泣く事がいけない事なのではない。
悲嘆にくれる事がいけない事なのではない。
思い起こされることが悪い事なのでもない。
悲しい事が悪い事なのではない。
辛い事が悪い事なのではない。
―――それは、決していけない事でも、悪い事でも無いのです。
夫のためにも次女のためにも、これはいけないんだ!
“それは悪いこと ・ いけないこと だ”と自制してきた思い自体が、今もあなたを縛って苦しめている事に気がつくべきです。
ただちに、ほどいてください。本心に忠実になるべきです。
「ではどうしたらいいのだろうか?」
この苦しみから救われる時が来るのだろうか。
どうすれば、悲しみの気持ちがおさまるだろうか。
どうやって日々を過ごせばいいだろうか。
どうすれば?どうやって?
何をすればいいのだろうか?何をすればいいのだろうか?
―――時には、よりよい変革を求める事をも、おやめになってみて下さい。
“何かしてあげなくちゃ”“何かしなければ”という考え自体が、あなたから心の安らぎ、自分との対話、お嬢さんとの対話を奪っている事に気づくべきです。
ただちに、何かしようとなさるあなたの思考の癖をおやめになって下さい。
「何もしないでそのまま過ごせるという事は絶大なる力」
前へ進もうとなさるあなたの姿勢はすばらしい事です。
ですが、あなたの本心は今、悲痛な叫びをあげているのではないでしょうか。
それは、どこか自分に嘘をついているからなのです。
だから、今から無理に変革を求め前へ進もうとする必要すらありません。
何かすることの中にばかり、答えがあると思ってもいけません。
“なにもしない”“何もしないを、する”“「何かしなきゃ」とも思わないこと”
あなたは、十分に親として、子供のため、最上の善をつとめ、果たされました。
あなたとお嬢さんのためにも、少し、そっと休みましょう。
それは“もとめ” “○○しなきゃ”を休むことです。
自縄自縛、無縄自縛の縄をほどくために、あえて、何もしない、をする。
そうすることで自分に向き合い、心の中で真の対話ができて救われ、笑顔を取り戻せるはずです。
ダメ主婦、ダメ嫁、ダメ母親、ダメ人間でいいと思います。
一日をお許しを頂いて、静かに何もせんで過ごす一日を持ってください。
とことん、ダメだなぁと堕ち切った時、再スタートの笑顔がこぼれることでありましょう。
娘さんの立場から
初めまして
遺族の悲しみはつきない物でしょう。
特に子供を亡くした母親ならその悲しみは計り知れない物と思います。
しかし考え方を変えてみましょう。亡くなった娘さんはどう思っているのでしょうか?
あなたが悲しむことは、自分が死んだことで母親を悲しませたと思うのではないでしょうか?
死にたくて死んでしまった訳ではありません。生きようと思って居たのに自分の運命でこうなってしまった。
娘さんが悪い訳ではありません。自分の運命を受け入れてあの世に旅立ったのです。
天国にいる娘さんは悲しむ母親の姿をを見て心を痛めているのではありませんか?
自分の親が苦しむのを見て喜ぶ子供がどこにいるでしょうか?
もし母親なら自分の娘さんならどう思うか一番良く分かると思います。
百ヶ日法要のことを卒哭忌と言います。泣くのを卒業しましょうという意味です。
もう天国の娘さんを悲しませないよう、泣くのを卒業しましょう。
しかしその前に家族みんなで泣きわめきましょう。恥ずかしい気持ちを全て捨てて思い切り涙を流して下さい。全ての涙を出し切って下さい。涙で心の悲しみを洗い流すように。
そしてその後は娘さんの為に笑顔になりましょう。あなたのおかげで楽しい時間が過ごせました。
ありがとうと。
人にこんなことを言ってもし自分が同じ事になったら同じ事が出来るかどうか分かりません。
しかし笑顔で娘さんを天国に見送ってあげるのが娘さんにとっての一番の供養と思います。
じゅんちさん、こんにちは。
その後、いかがお過ごしでしょうか。
思い出してしまって苦しい、癒やされない苦しみが続いている・・おつらいことと存じます。
私が、お通夜や葬儀のときに話す言葉があります。
E.グロールマンという方の言葉だそうです。その内容は・・・
親の死はあなたの過去を失うこと
配偶者の死はあなたの現在を失うこと
子どもの死はあなたの未来を失うこと
友人の死はあなたの人生の一部を失うこと
通夜葬儀の列席者、全員に当てはまることです(“きょうだい”はいずれかに含めます)。
じゅんちさんにとっては、どうでしょうか。
失うということ。それは、もとに戻ることはできない、ということです。
長女さんにとっても同じで、もとに戻ることはできません。
じゅんちさんが、元のお母さんに戻ることはないでしょう。
じゃあ、私は何をしたら??
ここでポイントとなるのが、
「じゅんちさんが、じゅんちさんでいること」
何をどうしたって、急な心変わりをしたって、貴方は貴方なのですが・・・。
いずれ私達は長女さんと同じ場所に行くでしょう。
だからといって、同じ場所で会いたいがために時期を早めることはいけません。「**の分も生きる」と言ったりしますが、「じゅんちさんが、じゅんちさんでいること」が肝要です。
大丈夫。
家族みんな、共に歩んできました。ちょっと長女さんは、立ち止まったようです。
後ろの方から見守っていてくれます。でも、そんなに遠くはありません。
私達人間のそれぞれの人生を歩むスピードは、速くない。
いつか、この気持ちから解放されるときが来るかもしれません。
苦しいじゃなく笑って思い出せるときが来るかもしれません。
その時まで、あなたがあなたでいることです。
最後に、平成9年3月神戸でおきた連続児童殺傷事件の被害者のお母さんの手記を紹介します。
お母さんにとって桜の咲く季節は、辛い季節となりました。区切りは付かないと言いますが・・事件から15年がたっての手記です。
「辛い春がようやく優しい身近なものとして戻ってきた」「一歩一歩積み重ねてきた時間がもたらす恩恵は、想像以上に大きく、苦しかった五千数百日の道のりを俯瞰できる力を与えてくれました。そして、あの子が居た時のように屈託なく笑うことや心の底から喜ぶことを思い出させてもくれました」
あなたの心の中にある宝物は、誰にも奪うことはできません。何度でも立ち上がることができる、証拠ですね。
いつか芽が出せる、ということは信じてください
本当にお辛い日々ですね。じゅんちさんは以前もご質問をされた方だと思いますが、この3ヶ月、悩み苦しみながらも、ご家族の為に日々の勤めをこなしてきたことは大変なご苦労だったと思います。
小さな草がアスファルトを割って芽を出すように、私たちには本来、立ち上がる力が備わっていると思います。しかし、それは目に見えないくらい、感じられないくらいとても緩やかな速度ではないでしょうか。アスファルトとまともにぶつかってそれを打ち砕ける訳がありません。ただ、どんなに時間がかかっても「いつか必ず芽が出せる」という事は、信じていいのではないでしょうか。その事を信じることができれば、今は、無理に気持ちを変えようと焦る必要はないと思います。
私も離れた地から、お嬢様のご冥福とじゅんち様のご家族の日々の無事を心からご祈念申し上げます。
泣きながらでも思い出す
じゅんちさんへ
お辛いことと思います。
近くのお墓に納骨されたとのこと。
近くで思い出して辛いかもしれませんが、近くてお参りしやすくてよろしいかと思います。
苦しいのは、辛いと思いますが。
苦しくても、思い出してしまうのではないでしょうか。
この苦しさは、なくなるかもしれませんし なくならないかもしれません。
でも、安心して思い出してあげてください。
安心して泣いてください。
そして、安心して もう一人の娘さんに愛情をそそいでください。
辛いのも苦しいのも、変わるかもしれないし変わらないかもしれません。
でも、辛くても苦しくても いけないことではありません。
辛くて苦しいことは、辛くて苦しいかもしれませんが、娘さんが亡くなったのです。当たり前のことです。
精いっぱい娘さんのことを思い出してください。
安心して娘さんのことを思い出してください。
そして、もう一人の娘さんにもおなじように、当たり前に向き合ってください。
大事な娘として、思う存分大事にしてあげてください。
苦しく思い出して泣いても大丈夫です。
そして安心して、おなじ思いでもう一人の娘さんに笑いかけてください。
じゅんち様。
貴女が仰る
「この気持ちから解放されるのでしょうか。 苦しいのではなく笑って思い出せるときが。」
はい。出来ますよ。必ず参りますよ。
其のが為にも、日々を前を向いてお過ごしに成られる事と、お嬢様の御供養を心から為して頂く事。そして、後ろ向きな考えはお辞めに成る事を為さいませ。