hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

なぜ地球は生まれ自分がここにいるのか

回答数回答 4
有り難し有り難し 62

昔から天体の授業など壮大な話を聞くと、自分はなぜここにいるのか…。地球はなぜ生まれたのか…。と不安になることがあったのですが、今年の初めに急に自分がなんなのか分からなくなりパニックになりました。

目に見えているものは認識できているのに、なぜ言葉を認識できるんだ?なぜ私はここにいるんだ?と次々に疑問が湧いてきて不安で仕方なくなります。

いままで見てきた景色すら違って見えるような気がします。

一生このままなのでは。気が狂ってしまうのでは。と、またまた色々なことを考えてしまい胸が苦しいです。

生きている意味を考えてしまったら終わり。というような見出しをネットで見て怖くなったり、哲学を勉強している人は自殺者が多いというような話を聞いて苦しくなったりもします。(哲学を勉強しているわけでもないのに悩むのもおかしいのですが)

いままで好きだったものも、心から好きと思えなくなってしまいました。

不安で仕方なくなると動けなくなってしまい、外にもろくに出ていません。

肉や卵などもパニックになる前は好んで食べていたのに、動物を殺したもの、と思ってしまい食事も楽しくなくなってしまいました。

この先不安で仕方なかったら死んだほうが…とも思いますが、怖くて仕方ないので苦しくても死にたくはないです。

切羽詰まって打っているので、文章がおかしいところが多々あると思うのですが、なぜ人は生きているのか。これからどうすればいいのか、など、少しでも前向きになれるようなお言葉を頂けたらなと思っております。

どうかよろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

縁起

「今年の初めに急に自分がなんなのか分からなくなり」とのこと。
では、今年の初めまでは「わかっていた」のでしょうか?そんなことないでしょう。今までもずっとわからなかったのではないですか?つまり「今までわからずに生きてきた」のです。ならば、「わからなくとも生きていける」ということです。わからないと生きていけない気がしているのが「自分の思い」です。

「自分の思い」ほどあてにならんものはありません。縁(関係・条件・環境・対象などの意)によってコロコロ変わるのが思いですから。

で、「自分はなぜここにいるのか」「地球はなぜ生まれたのか」についてですが、仏教的に言えば全てのものごとに原因があります。因果応報・因果の法則・縁起の道理です。

「此れあるとき、彼れあり。此れ生じるとき、彼れ生じる。
此れなきとき、彼れなし。此れ滅するとき、彼れ滅する。」

ってやつです。あれがああなってこうなっという「原因」があって地球があり、あなたがいるのです。ポイントは「意味」ではなく「原因」があるということです。

何か絶対的支配者が意味をもって「地球」や「あなた」という物事を創造したのでなく、あらゆる直接・間接的原因が複合的に絡み合って生じるーこれを「縁(よ)って起こる-縁起-」といいます。縁起してたまたま地球の形、あなたの形をしています。地球もあなたもあらゆる原因によることはわかっても、それが何なのか全ての原因は「わかりません」。

これを「不可思議(ふかしぎ)」と言います。「わけわからんこと」ではなく原因はあるという風に「わけはわかる」けど「人間の思いでは遠く及ばない・敵わない」ということです。

「わからんことをわからんと認める」ことです。

そして「わからん私」がああなってこうなって今現にこうして生かされているという事実に「意味」が生じるのです。ここで初めて意味です。

意味→存在の事実(縁起)でなく、存在の事実(縁起)→意味です。

さあ原因はわかりませんが、あらゆる原因が整って私として縁起している奇跡的な事実に尊厳を見出しましょう。とりあえず私ならお肉も卵も美味しくいただいて、「いただきます・ごちそうさま・ありがとう」からはじめますかね。
 私は「生きる意味」を問うことは必要だと思います。むしろこれをごまかすと「これでよかったのか?」と満たされない人生となる気がしてなりません。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

大丈夫、大丈夫。あなたは、今ここにいます。

パニックとは、意識がどんどん先走って、際限なく広がり、迷子になっている状態です。

しかし、意識がどこまで果てしなく広がっても、意識がおさまっている「器」は、「今ここで呼吸している自分の身体」です。

意識は迷子になっても、迷子になっていることを自覚できれば、必ず「器」へ戻ってこれます。それを忘れなければ、気がふれてしまうことはありません。

「器」へ戻る方法は、色々あります。

例えば、その場でできるものは、
丹田を意識して深呼吸。ジャンプ、四股を踏む等。
日常生活の中では、掃除や散歩、料理など、簡単な作業を集中して行う等。
足元や下半身を温めることや、マッサージ、筋トレやダンス、ヨガ等。

大切なのは、身体を動かし、五感を刺激すること。
そして、目の前にある現実に意識を集中させること、です。

「今ここにいる自分」や「生きている意味」を、アタマではなくカラダで実感するのです。

上がった「気」を下ろす、地に足つける、グラウンディングといった表現をする方もいますね。

さて、以下箇条書きで失礼しますが…

・宇宙の全貌を解明することは、おそらくだれにもできません。
でも、自然の流れに沿って、地に足をつけた生活をすることで、
「宇宙のはじまりと終わりが自分の生命の中に含まれている」と実感することはできます。
その実感があれば、「未知のことを何とか解明したい」という焦燥感からは、解放されます。

・自分は何者か?という問いにも、完全に答えられる人間はいません。
でも、他者との比較によって、なんとなく自分のポジションを確認することはできます。
「自分とは、自分以外のすべてによって定義される」ものなんです。
色んな人間との交流を通して、それが腑に落ちれば、不安は解消されます。

・嗜好の変化は、心身の成長過程で自然に起こることです。食べ物を含め、嫌なものは思い切って卒業してみましょう。これから新しくすきなものを見つければ良いと思います!

・人間である以上、何らかの形で他の生命を頂き、自分の命をつないでいます。悲観的になりすぎず、「頂いた命のバトンをどうつなぐか」という視点でおおらかにとらえてみて下さいね。

不安で押しつぶされそうなときこそ、自分の命を慈しみていねいに生活してみて下さいね。

字数制限で言葉が足らず…ご容赦下さい。
少しは気が楽になりますように…

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

すべては宇宙という身体の細胞

私たちが生きている中で、吹いた風や、落ちる雨粒の一つ一つを気にすることはないですよね。何故なら、それは一瞬で過ぎ去る現象だからです。
弘法大師空海は、「声(音)あるものすべてに命がある」とおっしゃっています。風や雨粒、虫や土、石ころですら命があるとおっしゃっています。
何故なら、それはすべて「宇宙」という大きな身体を構成している細胞のようなものだからです。全てのものが宇宙に生かされ、そして全てのものが宇宙を構成しているのです。そういったいみでは、この世に無駄なものなど何一つありません。

私たち人間も同じです。宇宙から生まれ、死んだらまた宇宙に帰って行く、風や雨と同じ現象にしか過ぎません。
じゃあ死んだら終わりか?それは違います。
宇宙から生まれ宇宙に帰り、そしてまた宇宙から生まれるんです。

まるで春に芽吹いた木の葉が、秋には枯れ落ち、木の栄養となり、また春に芽吹くようなもの。
すべての命は同一で永遠なんです。
だから、不安になることはありません。
私たちは常になにかに生かされ、そして何かを生かしているんです。

そういった、宇宙全体を自分として捉える宗教が仏教で、それを突き詰めたのが密教です。
興味がありましたら、またいつでもお尋ねください。

{{count}}
有り難し
おきもち

仏教哲学のススメ

Naga様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

確かに西洋哲学では、ニヒリズムやシニシズム、厭世主義に陥ることがあるように存じます。

同じ哲学でも、仏教哲学は違います。精緻な認識論、論理学もございます。

より良く生きるため、真なる真理の探究のため、最高の安楽・幸せ(悟り・涅槃)のために、是非、これからは仏教哲学も学んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

漠然とした質問に回答をくださりほんとうにありがとうございます。お礼が遅れてしまい失礼しました。

とにかく苦しくて仕方が無かったので回答の通知が来たときは、少し光が見えた気がして涙が出ました。

相変わらず考えても仕様がないことを考えすぎてしまい不安で苦しくなったりして外出は上手くできていないのですが、ご飯を食べられるようになりました。

かかりつけの病院の先生にも、ゆっくり調子を戻していきましょうと言われました。

ほんとうにこの不安や苦しさから抜けられるのかな…。と思ったりもしますが、少しでも前向きに生きられたらなと思います。

「自分の存在価値・生きる価値とは」問答一覧

自分の役割り

自分は技術部門の統括をやらせていただいてるのですが、人の育成は本当に難しい事ですが、生き甲斐を感じています。 その子がその業界なら何処でも 生きていけるスキルを身に付ける事を 念頭に置いて自分が教えられる事を その子の資質に合わせて伝えています。 しかし、自分自身の事としては今まで大きな成果や結果を出した事が無く、自信という意味では全くありません。 そんな自分が指導する立場にいる事が 時には胸が締め付けられるもどかしさが あります。 自分は表舞台でスポットを浴びる人では なく、 裏方で原石を輝かせるきっかけを作る事が 今は使命だと思いこの1年を過ごしてきました。使命だと思うのは自分の観点であってそれが本当に自分に向いているのかは自分にはわかりません。 しかし、誰かの為に何かをする事が自分の幸せであると心から思います。 家族も夢が叶い、家族が幸せに 生きてる事に幸せを感じます。 その為には自分なりにとてつもない 努力はしてきたつもりです。 年齢も40を過ぎこの仕事も 22年目を迎えてました。 今でもこの仕事が大好きです。 裏方にスポットを浴びせる事は ないのはわかっていても、 裏方ってやはり見えにくい存在で 表舞台に立つ人は無常に物事を 自分達が進めていき裏方に対しての 配慮に欠けたり、蔑ろにされたり する事があり、とても辛くなります。 意図的にされてると思う時もあります。 そんな時に相談できるところがなく、 こちらに相談させていただきました。 この先の人生を考えた時、自分の生き方に 迷いと怖さがあります。 今の環境で自分なりにやり切ったら 自分も次のステージに行きたいのですが 裏方が自分で生きてく為のステージを 見つけるにはどうしたら良いでしようか?

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

存在意義がほしい、他者を責めるのやめたい

別垢でだいぶ前に相談させてもらいました。その節はありがとうございました 私は現在一人暮らし(家賃生活費は親が出してくれています)で無職そして引きこもりです。 この状況ができているのは、他県の大学在学時になったからと、私が母(厳しい人で、失敗する度辛辣な文句や悪態をぶつけてくる性格。今はだいぶマイルドになりましたが、根っこの部分では変わってません)が怖くて実家暮らしを拒んでいたからです。 それで、一人暮らしの間に独り立ちしようと決意し、地方の福祉サービスを借りながらボランティア、就活に向けたセミナーや実践的な面談、果てにはバイト研修まで色々やってみました バイトには受かったのですが、実際は厳しくきちんと学べてないまま本番を重ねればならない、体力ないから急いでやってももっと早くとより上を求められてしまう、苦手な会話も適度にこなさなくてはいけない。 そんな新しいことで手一杯の中(まだ厳しかった頃の)母からLINEが来て、お前は何年も遊んでばかりで何もしていない!何も成長していない!と怒られ、メンタルが更に病んでしまいました それら全てが辛くて一度休みをとってみたのですが、後日自分への文句を話している先輩を見かけ そして全てから逃げ出すようにバイトを辞めました。 しばらく休んだ後、今度は就労支援施設を利用してコミュニケーションの勉強ができるようにしよう!と通い始めました。 初めは順調だったのですが、今度は朝起きるのが苦手なことがきっかけで、受けたいカリキュラムが受けられない、担当の方も出来る限りたくさんカリキュラム受けてほしいと言われ、そして受けたかったカリキュラム(SST)は実際に受けてみると怖くて会話術とかはやってみると上手く出来ず恥かいたという気持ちで不安でいっぱいでした。 それからは行きたくないなって気持ちでサボることが多くなり 結局1年のほとんどをろくに通えないまま一時停止しました バイトの件就労支援の件で、自立できると思ってたのにどちらもできずその時点で自分はクソだ。生きるに値しないと理解しました 最近は家族に心配するので実家に帰るのですが、その度に私が苦しんでるのはお前(母)のせいというように責めて傷つけてしまいます。 自分はどうでもいいけど、他人を傷つけたいとまでは思わないのです でも口から出る言葉は酷くて 自分はどうしたらいいのでしょうか

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

自分の存在価値

先日、友人新婦の結婚式に参加してきました。 大学時代、ずっと一緒に過ごしてきた仲の良い大切な友人でした。結婚式に出席の際、友人の席には大学時代は私だけ。あとは社会人になってから仲良くなったご友人たちのようでした。新婦らと思い出話で盛り上がるのは社会人になってからの話ばかり。私は疎外感がありました。大学時代の思い出を新婦としましたが、ほとんど、忘れちゃったと。 社会人のお友達との方が凄く楽しそうに最近の思い出話もしていて、私の知らない話に盛りあがっていて疎外感を感じておりました。 素敵なご友人たちで、新婦の友人は、幸せで良かったなぁと思う反面、寂しさも感じました。 特に悲しかったのは、新婦のお母様とお話した時でした。新婦のお母様とは大学の卒業式でお会いしてお話した事がありました。卒業以来の再会で私も嬉しかったのですが、話の中で、「(私が)結婚して数年たつけど、お子さんは?まだ居ないの?数年たってるのに…」と言われてしまいました。 他の出席したお友人は、お子さんが居る方だそうで、「やっぱりね!結婚して数年したらそりゃ、お母さんになるわよね」と会話していて… それから「(社会人になってから住んでる県)に来て、あなた達と娘と友達になってくれてありがとう」と、私らに話した後に、私に気づいて、少し気まずそうに、「大学でもお世話になったものね~」と、慌てたように言われてしまい、悪気は無いとは思いますが勝手に落ち込んでしまいました。 大学卒業後も、時々会って遊んでいたけれど、私と、他のお友達との熱量の違いにショックを感じてしまいました。 友達って、なんでしょうか?

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

目の手術失敗と自分の価値

今年で30歳になります。 今とても死にたい気持ちでいっぱいです。 家庭環境の影響で大人になって「醜形恐怖症」と「うつ病」と診断されましたが、お金がないと生活できないので、休職せずに頑張りました。 ですが、もともと子どもの頃から「死にたい」という気持ちを持ちながら生きてきたためか、仕事もやりがいを感じず毎日辞めたいです。でも、辞めた所で私には何も取り柄がないと感じ、何も転職できないのではと不安です。今まで自分が楽しいと思うことも見つけられず、やりたいこともありません。 また、子どもの頃から喧嘩の多い家庭環境で育ち、殴られたり泣くことが多かったためか、眼瞼下垂になってしまいました。20歳で手術をし、手術をしてから10年経ちますが、他の手術の症例を見ても、目をとじた時に私のように食い込みが強い人が見つかりません。調べると切開して年数も経っているので、修正も難しいそうです。数年前に結婚した夫におかしくないかきいても「大丈夫だよ」と言ってくれます。他の人にも変だと言われたことはないのですが、今まで変だったのに周りが優しいから言わなかったのかと思い、目を閉じたり伏し目になるのが急に怖くなり、人と顔を合わせるのがつらく、仕事が休みの日はひきこもって泣いています。 死にたいけれど、死んで私のことを大切にしてくれる夫と離れるのもつらいです。でもこのままでは、仕事もできず引きこもり夫の負担になってしまうのではと考え、死んだ方がいいのかもしれないと思ってしまいます。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ