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現実逃避

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有り難し有り難し 27

独り言です・・・・!

家の周辺のお寺にも行きました。

気晴らしに少し遠いところのお寺にも行き

仏様の前でお話も聞いて頂きました。

体調の悪い時は家で好きなアーティストのDVDを延々と見て!

でも・・・また現実が・・・!!

 いつまで続くのかな・・・!

毎晩亡くなつた母に 早く迎えに来てと祈る日々が増える!!

 こんな私て贅沢なのかな~?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

上手な現実逃避とは「現実離れをしない」こと。

これも独り言です。
現実逃避とは一般的には悪い意味ですが、それは実は自分の想念を相手にしているという事でもあります。
向き合いたくない現実があるのでそこから逃げるわけですが、そこから逃げたいと思う前に、それを嫌う想念が出てきています。ですから、その実際の現場の現実に対して、私的に思い起こした想念が生じているのです。
「ああ、これはイヤだ。」
「こういう人とは関わりたくない。」
現実逃避であるようで、実は想念を相手にしているのです。
そして、その想念を毛嫌いして、想念に対して反発感情が出てきているので、現実逃避とは厳密には想念逃避と言えるかもしれません。
仏教とは「現実離れ」をしないことでもあります。
ここで申し上げる所の「現実離れ」とは、「想念の世界に逃げる」ことです。
現実を相手にせず、現実に対して自分が「どうせこういうものだろう」と思いこんだものを相手にしているから、現実をみていないのです。
現実逃避という意味を、この現実離れという意味と結び付けながら、ご自身が今されている現実逃避をみてみましょう。
頭の中であれこれ実際の現実にありもしないことを思い起こして、そればかり相手にするという
「現実離れ」さえしなければ、人生に迷いはありません。
端的に申し上げましたが、仏教語を用いない仏教の要点がここに記されていますので、数回読んだだけではわからないと思いますが、ご覧になられて「ん?」「これは大事なことが説かれている」とお分かりいただけた方は何度か読み返してみてください。
人生が大きく変わることでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こころへのエネルギーチャージです

やまんば様

いま、やまんば様のしていることは現実逃避ではありません。

働いたり、人に気をつかったりすることでエネルギーが消耗します。
特に「気を使う」ことのように目に見えないことは疲れるのです。
だからエネルギーチャージが必要です。

からだの栄養は食べ物なのでわかりやすいですね。
でもこころの栄養は目に見えないのわかりにくいのです。

こころの好きなエネルギーは≪喜び≫です。
あまり意味にないようにみえることもこころには必要です。

ぼーっとしていたり、子供だったらゲームをしたり・・・
やまんばさんの「好きなアーティストのDVDを延々と見る」のは
とても大事なこころへのエネルギーチャージです!

そういうことをよくないことと思わずに自分に許してあげてください。
そうすればこころは必ず元気になってきます。
ずっと続くことなんてありません。
良いことも悪いことも「無常」ゆえにつづきませんから。

またお寺にいってみてください。
それはやまんばさんのこころがもっとも喜ぶことかもしれませんし
そんな姿をみたお母様も喜びます。

お元気になられますように・・・仙如

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有り難し
おきもち

お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなものです。 人生には穏やかな波の日もあれば嵐のような日もあります。 どんなときでもお釈迦様の言葉を探すと必要な答えを見つけだすことができます たとえ嵐の日であっても波に飲まれないように「お釈迦様の船」に乗って心静かに瞑想しながら船旅を続けるのが仏教徒の生き方です わたくし≪仙如≫も 抵抗して、もがいてもがいて溺れかけて そんなことがようやくわかってきたところです(まだ溺れそうになることもありますけど!) 苦しいときはもがくのをやめて力を抜いてみてください・・・からだは水に浮かんできます。 そして瞑想してこころを静めましょう。そうすれば自分のこころの中に答えがみつかります。お釈迦様は最期に「自分自身をよりどころにしなさい」とおしゃいました。 諦めないで絶望しないで自分を信じて生きていきましょう。

質問者からのお礼

丹下様
独り言なのにお返事ありがとうございます。
少し理解するのに時間がかかるかもしれませんが
何度も読み返してみたいと思います。

仙如様
今私の日々の生活は悪いものではないのですね?
少し自分なりに気が咎めていました!
家事の合間とはいえ こんな事をしていて良いのかなてね。
少し気持ちが楽になりました。
有難うございます。

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