ご先祖様について

初めて質問させて頂きます。
先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。
もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。
「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか?
長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。

たたり・悪霊
有り難し 63
回答 4
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

「ご先祖様」に生まれ変わる(「先祖に“する”“なる”」)

hideさん、こんにちは。

輪廻についてですが、仏教からはじまった考え方ではありません。
そして、「人は死ぬと生まれ変わる(生前の行いによって、生まれ変わる先が決まる)」・・・“かもしれない”というところがポイントかと存じます。

申し訳ないのですが、答えをバシッと出してくれないのが仏教なのです。
なんてったって、生物が死んだ後どうなるか・・・分かりませんよね。誰も知りません。
でも、考えることはできます。そして、生きていくことが大切だと仏教は説いています。

“生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在する”かもしれません(となりのオバサン、地球の裏側のだれか、虫、植物など)。
“「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれている”かもしれません(誰もいないのに二階で物音がする、風が吹いた、夢にでた、仏壇・お墓のまえで手を合わせる)。
“六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の世界をグルグルまわっている”かもしれません。
さらに、六道とはいま生きているこの世界のことで、生きている私達が自分の行いなどによって「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」に只今なったりならなかったり・・かもしれません。

以上、全部そのとおり・・かもしれません。

自分にとって大きな存在の誰かが亡くなったとき。それだけ大きな存在に今、私自身見守られている・・と考えて生きていくこと。
何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいる・・と考えて生きていくこと。

以上二つの「先祖に“する”“なる”」の同時並行。
私達が考えて生きていくことが、亡くなった人たちが「ご先祖様」として生まれ変わることにもなる。私は、そう考えています。

4年8ヶ月前

現代的な六道輪廻脱出論。

輪廻とは、本来の純粋仏教というより歴史が産んだ一つの思想として捉えるべきです。
輪廻思想によって良い行いを積むようになり救われる人が当時沢山おられたのでありましょう。
ですがあくまで思想ですので、現代の日本では根拠のない空想めいた話は理知的な方に通用しません。
死後の世界も検証のしようがない為、輪廻とは生きている人間の精神状態である、と説かれるようになりました。

天上界…一時的幸福状態
人間界…勝ち負け・好き嫌い・善悪などの相対観念に陥っている状態
修羅界…争い・ケンカ状態
餓鬼界…自分の事ばかりの自己中心的状態
畜生界…非人間的な言動につながる精神状態
地獄界…苦しみ状態

これら六つの精神状態をグルグルする生き方から、一歩踏み出して「仏にならんと一歩進めて、六道輪廻な心を離れようとする姿」が、お釈迦様が生まれて七歩 歩んだという故事に繋がるのです。
ですから、死後ではなく生きながら負のサイクルの六道輪廻から一歩踏み出して七歩目の歩みを今日、歴史を超えてお釈迦様と共に歩むことがあなたの本当の仏教的生き方の始まりです。

ご先祖様について
たとえば、人が亡くなったら、どうするべきなのか。
外国の街中では亡くなった人が数日間、横たわったまま放置されていることがあります。
それがもし自分の親だったら放っておけるでしょうか。
決してそのままにはしてはおけない。弔い、供養をしなかったら人は死んでそれっきり。それでは処理にすぎません。
亡くなったあとでも、生きている私たちを見守っていて欲しい、支えていて欲しいと慕う心が、 亡き人を敬い崇める追慕の気持ちとして現れる。
それが亡き人を先祖先亡として“生まれ変わらせる仏教独自の宗教行為であり、生きている人と亡くなられた方とが死後も交流を重ねられる最高の関わり合い方なのです。とある宗教では法事はありませんからね。亡くなったらある意味それっきりです。
亡き人をずっと無き人とさせず、死亡日を命日と呼び、永遠の命の形として敬い、お祀りをする。
故人を無(亡)くしたままにさせず、心的存在として先祖先亡の霊位として崇め、見守っていただく。永遠の命という存在として、生前とあい変わらぬ心の交流を重ねていく。
先祖を実感し供養する行為こそは豊かな心を持った人間の最高の生き方であると言えましょう。

4年8ヶ月前

生まれ変わらないのが仏

生まれかわりを続けることを輪廻と呼びます。世の中は苦しみに満ちた迷いの世界ですので、生まれかわりを続けるのは苦しみの再生です。お酒を飲む人が二日酔いになって「もう二度と飲むもんか」と思うのに、すぐにそれを忘れて、次の日にまたお酒を飲む、、、、ようなものでしょうか。

その輪廻の輪っかから解放される事を「解脱(げだつ)」といいます。解脱された人が「仏」であり、hideさんの考えるご先祖様もそういう存在です。ですので仏様(ご先祖様)は生まれ変わりません。葬儀(真言宗では引導)そしてご供養を持って、故人は仏となり、貴い存在になってhideさんを含め、縁ある方々を守ってくださいます。どうぞこれまで通り、お参りをされてください。

4年8ヶ月前

「死後のありようについて」

hide様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

先祖供養のことにつきましては、下記問いの皆様の回答も参考となるのではないかと存じます。

問い「先祖供養とは?」
http://hasunoha.jp/questions/129

「死後のありようについて」・・これは正直非常に難しい問いでありまして、一つは「無記」(回答しない)として、そんな問いについて考えることよりも、現実の迷い・苦しみの解決へ向けた実践の方が大切であるとして、問いそのものを退ける場合があります。

確かに以前の問いにおいて、死後のことにつきましても扱わせて頂いてはおります・・ただ、それはあくまでも現実における「善い」生き方の心掛けのために、として述べさせて頂いている次第でございます。

問い「死ぬとどうなるのでしょうか」
http://hasunoha.jp/questions/123

もちろん、拙見解と致しましては、死後、前世のありようについて、因果の連鎖から推論することは可能であるのではないかとは考えております。

この縁起なる世界においては、必ずモノ・コトには、原因があり、そして結果があります。この原因と結果の連鎖を緻密に分析していければ、少しなりとも前世・死後のありようを理解していくことができるのではないかと存じております。

例えば、一年前の自分の心と身体は、無常なる中において、今と同じとは言えないことは理解できるかと存じます。しかし、一年前の自分の心と身体が無ければ、明らかに今の自分は存在し得ていないことも理解できるかと存じます。一年前の自分の心と身体は、やはり今の自分の心と身体の縁(原因・条件)として繋がっているのであります。これは難しいことではありますが、同じでもないし、異なっているのでもないという八不の「不一不異」のことであります。

当然に心と身体が生じるのも全くの「無」から生じるわけではありませんし、やはり、生じる以前からの縁があったはずなのであります。そして、更にはその縁による連鎖・相続がこれからも、死後も続いていくことも少しくは理解ができていけるのではないかと存じております。

上記の例は字数制限上、あくまでも簡単に述べさせて頂きましたものでありまして、拙生もまだまだ考究の余地が相当にあるかと存じております。

川口英俊 合掌

4年8ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

向井様
的確なご返答ありがとうございました。“かもしれない”という事に、何か仏教の懐の深さを感じさせて頂きました。
また質問等させて頂くかもしれませんが、宜しくお願い致します。

関連する問答
関連するワード
このページの先頭へ