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自分が嫌でたまりません

回答数回答 2
有り難し有り難し 15

お世話になります。
以前から相談させて頂いてます。

お坊さんからアドバイスして頂きありがとうございました。

人と比べたらキリがありませんがどうしても人と比べてしまいます。
人生は思い通りにならなくて当たり前かもしれませんが辛いです。
こんな家に生まれなかったらよかったとか、もっと他の家に生まれてたらよかったとか考えてしまい、家庭環境のせいにしてしまいます。
とにかく自分の性格も嫌で色々と辛い思いをしたり後悔ばかりなので、短気で怒りっぽくなってしまいました。
もっと穏やかに過ごしたいのですが、何で私ばっかりという思いがあります。
人は何故幸せな人と不幸な人がいるのですか?
努力することが大事とか言ったってどうにもならないこともありますよね?
世の中は理不尽で平等ではありません。
もう全て諦めて今の現状を受け入れるしかないのでしょうか?
そのくせ、理想は高いので妄想や空想をして現実逃避してしまいます。
特別優雅な暮らしが出来なくても普通に幸せになりたかったです。
私は今まで私なりに必死に生きてきたんです。私は不器用ですが不器用なりに。
なのに何故こんな思いをしなければいけないのですか?
私は今まで楽しいことなんてありませんでした。
生きることは残獄ですね。
この運命を受け入れるしかないのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の変え方を紹介

過去のものも少し拝見しました。
身近な従姉妹さんという羨む存在がいるのは、少し辛いですね。

比較しても仕方ないことも
もしも話には意味がないことも、
頭の中でわかってらっしゃることと思います。
まぁ、それでも考えてしまいますよね。

私の友達に似た方がいます。
この世の「陰と陽」の陰ばかり見てしまう方です。
怒り、妬み、過去と被害妄想に囚われており、苦しそうです。
理想と現実のギャップにいつも悩んでいます。

「もう全て諦めて今の現状を受け入れるしかないのでしょうか?」
とありますが、それが簡単にできるなら苦労しませんよね。
確かに受け入れていくことも必要なことです。
ですが、変えていくこともできるんですよ。

タイトルの「自分が嫌」に重点を置いてみます。
自分を一枚のノートと思ってみて下さい。
ページが何枚もあります。それには貴女のことが書いてます。
「○○が好き」「○○をしないと気がすまない」など、すべて書いてます。

「短気で怒りっぽい」ページももちろんあるでしょう。
これが自分にとって嫌なら、このページを破いてみましょう。
イメージとしては、今自分が怒っている時に「あ、今短気で怒りっぽいページになっている」と客観的に観ることです。
嫌な自分のページを破り飛ばす!
…実際、なかなか固くて破けません。
しかしこうして客観的に意識することで、そのページはだんだん目立たせなくできるようになります。

新しいページを書くこともできます。
幸せに見える人は、「幸せを掴むことができる何かのページ」を必ず持っています。
「笑顔でいることを心がける」とかね。
羨むよりも、むしろ参考にしてみましょう。
私は昔ガリガリのいじめられっ子で「自信がある自分」のページはありませんでした。
なので、努力して鍛えてそのページを作りました。
どんなページも、自分で作ることができるし手放すこともできます。
どうせ私には無理と思いこんでやろうとしていないだけです。

幸せは環境が与えてくれるものではありません。
お金があっても満たされず不幸な人なんて山ほどいます。
『蔵の宝より身の宝、身の宝より心の宝が大事』とは祖師の言葉です。
心が変われば世界が変わります。

この運命を…とありますが、運んで動かせるから「運命」なんですよ。
あきらめんといて下さいね!

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困っている人や悩んでいる人にとって、仏さまの教えが少しでも良薬となれること...
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条件に左右されない私

拝読させていただきました。

かなかな様を苦しめてるのは自分の凝り固まった「思い込み」で、それを手放せば楽になれるとおもいます。

「劣等感たっぷりの今の自分で我慢していく」ことと、「現状を受け入れていく」ことは、全く違います。かなかな様は言葉としては後者を使いながらも、心の中は前者でしょう。

人間は解釈しながら生きています。無意識に。自動的に脳がやってしまっているので、「私」の意識には止まりません。
彼そのものを見ているつもりでも、実際は、「解釈、評価」を加えたあとの彼をみています。
まず、これに気付くことが大事です。

そうなると問題は、自分の外にあるのではなく、解釈したり価値を勝手に与えてしまう「私の思考」に問題があるとしぼり込めます。

「私の思い」といいながらも、私の思い通りには働いてくれません。なぜでしょう。もし本当に「私の」思いならば私の意思の通りに働いてくれるはずです。思うのを止めようと思えば止めれるはずです。なぜできないか。

それは、思いは私のものではないからです。思いは、過去の記憶や経験をもとに自然と涌き上がってくるものです。脳の働きとしてあるのです。もちろん意識的に考えることも出来ると思いますが、基本に全自動です。なのでどうこうしようというのがまず見当違いです。

自分が打ち上げてもいない花火を、「やばい、打ち上げちゃった!」と必死に止めようとあたふたあたふたしているようなものです。そのままでいいんです。

そもそも、「私なんて元々ない」と仏教では説きます。

「私がいる」という感覚は、脳の勘違いです。
脳の働きとしての思考が「私がいる」という感覚を産み出し、その私が「私が思考している」と錯覚してしまっている。というのが本当のところだと思います。

もともと私などいなく、私がいなければ対する他人もいない。比べるものもない。

「人一倍がんばらなければ価値のない私」「あの人みたいになりたい、それに比べて私は…」。そんな思い込み手放しましょう。そんな思いが湧いてきても手をつけずそのままにしておきましょう。

かなかな様はすでに完璧です。欠けてるところなんてありません。

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若輩者ですが、宜しくお願い致します。
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質問者からのお礼

日顕様、ありがとうございます。

宗像義順様、ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ