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腕輪念珠について

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次々と質問をして申し訳ありません。
毎日のお勤めさせていただく時には、略式の一重で房の付いた数珠を使用しています。
念珠を専門に販売しているお店で、真言宗用の二重で、玉が108個、縞黒檀でできた、腕に着ける事のできるミニチュアの数珠を購入をしました。
両親やご先祖さまの成仏、供養の気持ちを常に忘れないようにと。
少しでも供養になるでしょうか?自分だけの気休め程度にしかならないですか?
また、毎日のお勤めや、法事の時に使用してもよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

えっ?数珠を持つだけではダメ?…かも

数珠について趣深いお話がございます。
石原裕次郎さんのお墓のあることで知られる曹洞宗大本山総持寺はもともと石川県にありました。
仏教の国際化という理念から100年程前に本山を横浜に移転することになりました。
当時の最高責任者であった石川素童禅師は反対派から命を狙われる程の事であったそうです。
その時に護衛をお勤めした方が日比野雷風さんという剣豪でした。

ある時、日比野さんは禅師様の数珠を欲しいと懇願されたそうです。
石川禅師はかねてより親交の厚かった日比野さんの欠点でもある怒りっぽいご性格をご存知であられたようで「数珠ならタダでくれても良いがその代わりに、お前さんの癇癪(かんしゃく)玉をワシにくれ」とお話になられたそうです。

「だがワシは和尚だから癇癪を起こすわけにもいかん。よってお前の癇癪玉を今からこの数珠に封じ込めることとする。今からこの数珠はお前様のものだが、癇癪玉はたった今ワシがもらった以上、許可無く勝手に使うことはならん、今日からワシとお前さんとの約束じゃ。」
日比野さんも道心熱く、ご自身に強く思い当たるところがあられたと見えて、数珠を頂く代わりに今後は一切腹を立てまい、と誓願をお立てになられ、腹を立てるようなことがある度に「禅師との約束であるから」と、数珠を固く握って自身の怒りの心をよく収められ、ついには怒りの心を滅せられ晩年、印可を受けられたということであります。

仏教とは、自己の心の向上をも目指すものです。
人間には誰でも怒りの心があります。
相手を憎む、敵と思うその心は、自らの心より起こります。
怒りの原因である我見の正体をよく見極め、一生涯、怒りの心を治めてこそ仏道の成就です。
仏具を買い揃えればそれで良い、としてしまえば日比野雷風さんから一喝を受けることになるでしょう。(写真参照)
菩提寺のご住職から開眼供養をしていただく際に、何らかの誓願をお立てになられることをお勧め申しあげます。それこそ真の開眼供養となられることでありましょう。
http://www.shintoryu.jp/modules/shintoryu/index.php/kaiso.html
もし共感していただけた方は、以下の有り難しボタンを今回はむやみに押さず、自己の向上の為「今日から絶対に腹を立てない」とお約束の上、決死の覚悟の上クリック願います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あんくま様。

「毎日のお勤めさせていただく時には、略式の一重で房の付いた数珠を使用…」との事ですが、此のお数珠は俗に言う八宗兼用数珠ですから、出来れば真言宗徒のあんくま様はお使いに成らぬ方が良かろうと存じますよ。
せっかく、真言宗用の二重で、玉が108個、縞黒檀でできた、腕に着ける事のできるミニチュアの数珠を購入為さったのですから…

ただ、これとて御両親やご先祖さまの成仏、供養の気持ちを常に忘れないようにと…とのお心や少しでも供養になるのではとのお心遣いでは有りましょうが、此れは平生に仏弟子としての標榜の標しとして、腕にはめてお使い頂きますれば最良かと…

正式には、真言宗用のお数珠は二重(正しくは本連と言います。)で、玉が108個で、腕に掛ける物をお求め頂ければと存じます。
毎日のお勤めや、法事の席にも間違い無くご持参頂ける物ですから…

蛇足では御座居ますが、「縞黒檀でできた、腕に着ける事のできるミニチュアの数珠」も本連の其れも、お買い求めに成られたら、菩提寺ご住職様に「開眼供養」をお願いなさいませ。
其れが為されて、始めて真言宗徒のあんくま様の本当のお数珠に成るのですから…

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色々の悩み事がこの世には沢山有ります。 大学の卒論で密教天文暦法を研究致し、実践において長期にわたり使用実績を積む 此の密教の天文暦法に基づく占星法で、衆生の手助けをと考えます。 また、一座供養、一座祈祷も承って居ります。 本来、供養や祈祷は長期に渡り此れを継続的行うものですが、 一回のみの供養や祈祷を一座供養・一座祈祷として、此処にお受けするものです。 なお、遠方のお方でも、承りますのでご遠慮なくお問い合わせ下さいませ。

質問者からのお礼

沙門様
ご回答、ありがとうございます。
お数珠にも開眼供養があるのですね、存じませんでした。
ただ、腕に着けていても供養にはならないのですね、勉強になりました。
ありがとうございました。

丹下覚元様
興味深いお話し、ありがとうございます。
人間には色々な感情がその時々、色々な
事柄で沸いてくるものですね。いつも穏やかな気持ちで供養、お勤めしていけるよう誓願したいとおもいます。

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