hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お寺や神社の写真にうつるモヤについて

回答数回答 4
有り難し有り難し 141

こんにちは。
他の場所では起きたことがないのですが、特に神社などで写真を撮ると、煙もないのに白いモヤが写り込むことがあります。
当方カメラ歴が長く、逆光やハレーション、玉ボケなどで、何かが意図せず写真に写ってしまう現象には詳しいつもりなのですが、そういったものとも違うため、少し怖いですし頭をひねっています。
(思い起こすと昔からこのような不思議な体験は多い方です

お寺や神社は聖域?のようなもので、不浄なものは入ってこられないと耳にした事がありますが、それは本当なのでしょうか?これらがうつってしまうような場所はどんな意味があるのでしょうか。悪いところではないのでしょうか??
個人的には好きな場所だったりするので、「気持ち悪いな」という思いを持って行くのが少しひっかかっています。
お手数ですが、ご回答お願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お寺や神社は聖域です

すみれさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

すみれさんは神社で撮影したとき白いモヤが写り込むことがあるのですね。すみれさんは写真撮影に詳しく、光によるハレーションのような現象でないことは確かなようです。

神社は鳥居をくぐって境内に入ります。境内の周りにしめ縄を張ってあるのをすみれさんも見たことがあると思います。これは、しめ縄の内側と外側を分けるためです。内側は結界された浄域です。御神体の力により守られている場所です。

寺院も同じです。山門をくぐって境内に入ります。境内は結界された浄域です。御本尊の力により守られています。

モヤのようなものが写り込むのは、神社の御神体や寺院の御本尊に引き寄せられたものであると思います。結界の中で悪いものはいないと考えていいと思います。

参考まで。

{{count}}
有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

写真上だけのものです

動画でそういうものが映っていたためしはありません。
鮮明な、高画質で映っていたためしもありません。
写真というのは、リアル、現実、真実を、カメラというフィルター越しに写して、そこからさらにプリントアウトもします。
そういった工程で変な付着物が生じることはよくあることです。
カメラ、ケータイのカメラ等でも、色々実験してみてください。
むしろ、モヤ、ボケ、ズレ、光、割と簡単に入ってしまうものです。

カベのシミはただのシミ。
意味をつけ出すと、カベのシミ一つで、心にもシミができる。
自分の意味づけにしみない、つかない、そまらない。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

見えないものは気にしない

私も長く写真をやってました。
確かに、光学的には説明出来ないような不思議なものが映り込むことはよくありますよね。

ネガフィルムには写らないのにポジフィルムには写るとか、フィルムには写らないのにデジカメには写るとか・・・

神様だとか、霊ですとか、言いたいのは山々ですが、おそらく感度領域とラチュードの問題でしょうか・・・

それが証拠に、同じカメラで撮ってもすべてに写っているわけではないとか、違うカメラで撮ると写ってないとか、現実にはそういうことだろうと思います。

チューニングがたまたま合ったから映り込んだもので、その正体はわかりませんが、目に見えない光か電磁波のようなものかも知れません。

これはカメラだけではなく、私たち人間もそうなのです。

我々人間の目にも,見える領域は見えるがそうでない領域は見えません。

見えないものは無いのと同じで、そこにあるとは言えません。
たとえそれが、いわゆる霊と言われるもので実際にそこにあったとしても、見えないのですから無いのと同じなのです。

ですからお釈迦様は、死後の世界も含めて、見えないものに囚われるべきではないと説かれています。

たまにあなたのカメラがあなたの目に見えないものを見て、あなたの切り取りたい情景の邪魔するかも知れませんが、それはたまたま、カメラとあなたの息が合わなかっただけですから、ご愛敬として寛容に捉えてあげてください。

カメラが見たらあるものでも,あなたが見たら無いのです。
どうぞ、気持ち悪いなんて思わずに、お好きな場所で思う存分撮りまくって下さい。

あなたの目で見た快心の一枚を期待していますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

何が写っているのでしょうか?

すみれさん初めまして
質問を読ませていただきました。
結論から言うと、私も分かりません
だいたいの神霊写真は霊とは関係なかったりしますが、たまに説明のつかない写真があるそうですが、今回 相談の写真は極めて後者の可能性が高いようですが、やっぱり写真を見ていないので判断できません
しかし、神社で写したものなら悪いものでは無いと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショウ)と申します。 今現在 しゃべって話せる僧侶を目指し精進しております。
相談時間は基本30分とし、30分を経過すると一度、電話を切らせていただきます。

質問者からのお礼

沢山のご回答をいただき、有難うございました。
ご助言の通り、物事を決めつけたりいたずらに不安がったりすること自体が問題でもありますね。自分自身をしっかりと、またこれから地に足をつけて物事に接していきたいと思いました。
また、寺院・神社内についての浄域のお話も大変参考になりました。これから清々しい気持ちでまたお参りさせて頂きます。重ねて有難うございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ