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幸せ

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幸せとはどのような状態なのでしょうか?

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

幸せってなんだろうって考えていない状態

苦しんでいる状態(自分の思い通りにならない)が不幸であるのですから、幸せは苦しみが無いときです。自分の望みが叶っている状態とも言えるかもしれません。
仏教では、叶う叶わないより、望みの方を見つめます。

高級車が欲しい、イケメンになりたい、みんなから尊敬されたい、メロンパンにチョコチップがついていてほしい、、、、、

これらの望みを考えたときに、別に無くてもいいかな、むしろ無い方がいいと思えたら、気がつけばその時が望みが全て叶っている瞬間です。その状態を幸せと呼ぶのでしょう。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

しみじみ感じるもの

幸せとは何ぞや?

人によってその判断基準は様々でしょう。

何かを成し遂げた時の喜びや、ふとした瞬間にわき上がってくる幸福感、そういったものを想像する方は多いでしょう。
仏教で言うところの「歓喜」「法悦」などがそれに当たるのでしょうか。
そういった、心の内にわき上がってくる喜びは、次の自分にも繋がりますし、自分の道を示してくれます。

ただ、幸せというと、どうも「ニコニコ笑顔で」というイメージが先行してしまいがちですが、本来の幸せとは、一時的に象徴的に味わうものではないような気がします。

仏教で言えば「安穏」に当たるのでしょうか。
自分を取り巻く状況がどうであれ、それに左右されることなく、自身の心が落ち着いて平穏でいる状態、これを幸せと呼ぶのかもしれません。

こんな仏様みたいな究極の安穏を求めても無理がありますし、常にそんな安穏でいることなど、私たち凡夫にはなかなか出来ることではありません。

でも、日常の中のふとした瞬間に、自分の人生を振り返って感じることがあるはずです。

例えば、過去を振り返って「色々あったけどよくここまで来られたなぁ」とか、今の状況を見て「家族に支えてもらって有り難いなぁ」とか、そんな感情をいだくことはままあります。

自分の願望はどうであれ、他人と比べてどうであれ、自分の今までの有様を自分自身で見た時に、「ほっ。」と気持ちが穏やかになる時が一瞬でもあるのなら、きっとそれは幸せに生きてきたということなのかも知れません。

誰しも、何かを成就した喜びを幸せと感じて、それを得ようとすることは出来ます。
確かに何かを成し遂げた時の喜びは幸せ以外の何ものでもないでしょう。
しかし、その喜びにたどり着くまでには、必ずそれ相応の苦労が伴うものです。
その苦労を味わっている途中で「幸せではない」と感じてしまうなら、全てのことは苦で終わってしまいます。

幸せとは、願望として求めたり、目先に感じるものではなく、自分自身を振り返って見た時に、しみじみと感じるものなのかもしれませんね。

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幸せとは

幸せとはもともと巡り合わせの意味であったのが、変化し運が良いなのどの意味が後から加えられたと記憶しています。
仏教伝来以後に成立した和製の言葉なので、仏教の考え方とは少し合わないところもあると思いますが、あえて考えるなら、昔やっていたヤッターマンシリーズの逆転イッパツマンと言うアニメのオープニングの歌の一節に「 幸せとは全て許し合える人々に宿るものなんだ 」とあったと思います。
良いところも悪いところも許し理解し合える状態は家族であっても、職場であっても幸せだと感じることができるでしょうね。
完全に余談ですが

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私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショウ)と申します。 今現在 しゃべって話せる僧侶を目指し精進しております。
相談時間は基本30分とし、30分を経過すると一度、電話を切らせていただきます。

欲望を満たすということではない

幸せ。とは、悩み、苦しみから解放されることではないでしょうか。
間違えなく言えることはわ個人レベルで、あれがしたい、これがほしいなどという欲を満たすことではないでしょう。欲望にはきりがないですからね。一時的に満たされても、また次の欲望がやってきます。それが苦しみになってしまいます。

私たちが生きていることが、どのような真理の上で成り立っているのか、そこに気づくことが、そうした悩み、苦しみから、離れることになるのだと思います。

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禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

思考ごしに観ずに、事実世界をダイレクトに享受すること

人間の眼や耳や体の感覚は生まれた時から、一度もスイッチがオフになった事はありません。
生まれながらに、ずーっと見えっぱ、触れっぱ、ゲロッパ、聞こえっぱなのです。




ただ、こうして、何が映ろうとも、ただ、そこにものが映る、音が聞こえる。
ただ、触れたものになる。
生まれてこのかた一度も、気絶している時などの例外を除いて、感覚がオフになった事がない。
そして、そこにマインド・思いのはたらき(想行識)、好き嫌いなどの判断・評価を介入させていない時こそが、安心安楽、仏教でいう所の幸せなのです。
物事に対して自分の評価でDISられていないままの状態をストレートに感知、感受、享受しているからです。
そのまま享受するということは、
考えによって歪曲させられていない世界を受け取っているからです。
思いの上塗りをされていない状態を味わっているからです。
意味づけによって、捻じ曲げられていない状態を頂いているからです。
思考のフィルター越しにみている当たり前の、そのままの事実には、何の色もついていません。
ですが、そこに、人間さまだけは思いを加える。思いを上塗りする。思いのペンキで脚色する。
人間が事実の世界に思いの上塗りをするということは、ウナギの白焼きや焼き鳥にタレを塗るようなものなのです。
そのまま白焼きのまま頂くことが、実物をそのまま味わうことなのです。
勿論これは、ウナギや焼き鳥の事ではありません。今日一日、出会う事、遭遇する事、向かっている目前の事実に対して、ニュース、ネット情報などに対して、❝白焼き❞状態で、みましょう、ということです。

以下はあまり関係ありませんが、食べ物だけに関しては、むしろ私はタレ派です。以前、ウナギが値上がりする前に、通ぶってウナギの白焼きを注文しました。白焼きはタレを何度も塗る蒲焼きと異なり味が薄いので、あっちゅうまに食べてしまい、2000円が一瞬で飛んでしまったことに愕然。ああ無常。やっぱりかば焼きにしておけばよかったとものすごく後悔して枕を涙で濡らしたことがあります。だって、ご飯もついてこなかったし。ウナギといえばやっぱりタレご飯がよかった。ううう(泣)
この様に、過ぎた出来事に対しても、思考のフィルター越しに観て、思いのタレを何度も上塗りし、塗り重ねをしていることこそ目前の事実を損ねている不幸で哀れな状態です。(笑)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仏教にはない概念ですが

私は浄土真宗という宗旨の住職です。浄土真宗関係のお経や高僧のお書物のなかで、「幸」という漢字をあまり見ません。

わずかにある「幸」は「ねがわくは」という意味にものが一例のみあり、残りは仏様の教えに触れることができたこと、または仏教の指導者に出あえたを「幸い」としている用例に限られます。指導者に出あうというのは結局、仏教に出あうということに他ならないので、仏教に出あい親しむことが仏教における幸福であるといえるのでしょう(あくまでも浄土真宗関係限定の話です)。

世間的には、お金持ちになる等々、よくご存知のとおり自分の欲が満たされたとき、「幸せ」を感じるのですね。

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

仕合わせ

「幸せ」の語源は
「仕合わせ」と表記していた言葉です。
「仕」とはつかえる、従うの意。
生涯、共にいられる人物や教えなどに出合う事。
それが最大の喜びとなるので、転じて
「幸」「幸福」
という字で表現されるようになりました。
でも仏典(お経)には、
幸・幸福
という字はほとんど出てきません。
仏の教え、つまり仏教に出合う事、これが最大の「仕合わせ」だからデス!

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石川県金沢市内の城北地区鳴和町で浄土真宗本願寺派のお寺をお預かりしております。 過去の経験から、僧侶が聴聞の方々に一方的に話すだけの法話スタイルに疑問を感じ、悩んでる人・苦しんでいる人・勿論そうではないチョット仏教に興味がある人のお話しを聞き、対話する中でより良い方向を一緒に探す事を重要視しています。 お気軽にご相談下さい。

質問者からのお礼

納得できる解答有難うございます。

丹下様

解答有難うございます。

幸せとは諸法実相で観る事ですね❗

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ