回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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幸せってなんだろうって考えていない状態
苦しんでいる状態(自分の思い通りにならない)が不幸であるのですから、幸せは苦しみが無いときです。自分の望みが叶っている状態とも言えるかもしれません。
仏教では、叶う叶わないより、望みの方を見つめます。
高級車が欲しい、イケメンになりたい、みんなから尊敬されたい、メロンパンにチョコチップがついていてほしい、、、、、
これらの望みを考えたときに、別に無くてもいいかな、むしろ無い方がいいと思えたら、気がつけばその時が望みが全て叶っている瞬間です。その状態を幸せと呼ぶのでしょう。
しみじみ感じるもの
幸せとは何ぞや?
人によってその判断基準は様々でしょう。
何かを成し遂げた時の喜びや、ふとした瞬間にわき上がってくる幸福感、そういったものを想像する方は多いでしょう。
仏教で言うところの「歓喜」「法悦」などがそれに当たるのでしょうか。
そういった、心の内にわき上がってくる喜びは、次の自分にも繋がりますし、自分の道を示してくれます。
ただ、幸せというと、どうも「ニコニコ笑顔で」というイメージが先行してしまいがちですが、本来の幸せとは、一時的に象徴的に味わうものではないような気がします。
仏教で言えば「安穏」に当たるのでしょうか。
自分を取り巻く状況がどうであれ、それに左右されることなく、自身の心が落ち着いて平穏でいる状態、これを幸せと呼ぶのかもしれません。
こんな仏様みたいな究極の安穏を求めても無理がありますし、常にそんな安穏でいることなど、私たち凡夫にはなかなか出来ることではありません。
でも、日常の中のふとした瞬間に、自分の人生を振り返って感じることがあるはずです。
例えば、過去を振り返って「色々あったけどよくここまで来られたなぁ」とか、今の状況を見て「家族に支えてもらって有り難いなぁ」とか、そんな感情をいだくことはままあります。
自分の願望はどうであれ、他人と比べてどうであれ、自分の今までの有様を自分自身で見た時に、「ほっ。」と気持ちが穏やかになる時が一瞬でもあるのなら、きっとそれは幸せに生きてきたということなのかも知れません。
誰しも、何かを成就した喜びを幸せと感じて、それを得ようとすることは出来ます。
確かに何かを成し遂げた時の喜びは幸せ以外の何ものでもないでしょう。
しかし、その喜びにたどり着くまでには、必ずそれ相応の苦労が伴うものです。
その苦労を味わっている途中で「幸せではない」と感じてしまうなら、全てのことは苦で終わってしまいます。
幸せとは、願望として求めたり、目先に感じるものではなく、自分自身を振り返って見た時に、しみじみと感じるものなのかもしれませんね。
幸せとは
幸せとはもともと巡り合わせの意味であったのが、変化し運が良いなのどの意味が後から加えられたと記憶しています。
仏教伝来以後に成立した和製の言葉なので、仏教の考え方とは少し合わないところもあると思いますが、あえて考えるなら、昔やっていたヤッターマンシリーズの逆転イッパツマンと言うアニメのオープニングの歌の一節に「 幸せとは全て許し合える人々に宿るものなんだ 」とあったと思います。
良いところも悪いところも許し理解し合える状態は家族であっても、職場であっても幸せだと感じることができるでしょうね。
完全に余談ですが
欲望を満たすということではない
幸せ。とは、悩み、苦しみから解放されることではないでしょうか。
間違えなく言えることはわ個人レベルで、あれがしたい、これがほしいなどという欲を満たすことではないでしょう。欲望にはきりがないですからね。一時的に満たされても、また次の欲望がやってきます。それが苦しみになってしまいます。
私たちが生きていることが、どのような真理の上で成り立っているのか、そこに気づくことが、そうした悩み、苦しみから、離れることになるのだと思います。
思考ごしに観ずに、事実世界をダイレクトに享受すること
人間の眼や耳や体の感覚は生まれた時から、一度もスイッチがオフになった事はありません。
生まれながらに、ずーっと見えっぱ、触れっぱ、ゲロッパ、聞こえっぱなのです。
・
●
○
〇
ただ、こうして、何が映ろうとも、ただ、そこにものが映る、音が聞こえる。
ただ、触れたものになる。
生まれてこのかた一度も、気絶している時などの例外を除いて、感覚がオフになった事がない。
そして、そこにマインド・思いのはたらき(想行識)、好き嫌いなどの判断・評価を介入させていない時こそが、安心安楽、仏教でいう所の幸せなのです。
物事に対して自分の評価でDISられていないままの状態をストレートに感知、感受、享受しているからです。
そのまま享受するということは、
考えによって歪曲させられていない世界を受け取っているからです。
思いの上塗りをされていない状態を味わっているからです。
意味づけによって、捻じ曲げられていない状態を頂いているからです。
思考のフィルター越しにみている当たり前の、そのままの事実には、何の色もついていません。
ですが、そこに、人間さまだけは思いを加える。思いを上塗りする。思いのペンキで脚色する。
人間が事実の世界に思いの上塗りをするということは、ウナギの白焼きや焼き鳥にタレを塗るようなものなのです。
そのまま白焼きのまま頂くことが、実物をそのまま味わうことなのです。
勿論これは、ウナギや焼き鳥の事ではありません。今日一日、出会う事、遭遇する事、向かっている目前の事実に対して、ニュース、ネット情報などに対して、❝白焼き❞状態で、みましょう、ということです。
以下はあまり関係ありませんが、食べ物だけに関しては、むしろ私はタレ派です。以前、ウナギが値上がりする前に、通ぶってウナギの白焼きを注文しました。白焼きはタレを何度も塗る蒲焼きと異なり味が薄いので、あっちゅうまに食べてしまい、2000円が一瞬で飛んでしまったことに愕然。ああ無常。やっぱりかば焼きにしておけばよかったとものすごく後悔して枕を涙で濡らしたことがあります。だって、ご飯もついてこなかったし。ウナギといえばやっぱりタレご飯がよかった。ううう(泣)
この様に、過ぎた出来事に対しても、思考のフィルター越しに観て、思いのタレを何度も上塗りし、塗り重ねをしていることこそ目前の事実を損ねている不幸で哀れな状態です。(笑)
仏教にはない概念ですが
私は浄土真宗という宗旨の住職です。浄土真宗関係のお経や高僧のお書物のなかで、「幸」という漢字をあまり見ません。
わずかにある「幸」は「ねがわくは」という意味にものが一例のみあり、残りは仏様の教えに触れることができたこと、または仏教の指導者に出あえたを「幸い」としている用例に限られます。指導者に出あうというのは結局、仏教に出あうということに他ならないので、仏教に出あい親しむことが仏教における幸福であるといえるのでしょう(あくまでも浄土真宗関係限定の話です)。
世間的には、お金持ちになる等々、よくご存知のとおり自分の欲が満たされたとき、「幸せ」を感じるのですね。
仕合わせ
「幸せ」の語源は
「仕合わせ」と表記していた言葉です。
「仕」とはつかえる、従うの意。
生涯、共にいられる人物や教えなどに出合う事。
それが最大の喜びとなるので、転じて
「幸」「幸福」
という字で表現されるようになりました。
でも仏典(お経)には、
幸・幸福
という字はほとんど出てきません。
仏の教え、つまり仏教に出合う事、これが最大の「仕合わせ」だからデス!
質問者からのお礼
納得できる解答有難うございます。
丹下様
解答有難うございます。
幸せとは諸法実相で観る事ですね❗