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人の死期がわかってしまう。

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はじめまして。悩みというか、不思議なことが重なりまして、今日で三回目だったので、こんな話を普通にできないと思い投稿しました。
三回目というのは、人が亡くなる1ヵ月前に死体の匂いを感じます。実際に自分にはその方から死体の匂いがしてくるのです。匂いがしてだいたい1ヶ月くらいで亡くなります。そんなことがここ3年立て続けに起こりました。
仕事がら高齢者と接する事が多いので、たまたまなのかもしれませんが。。。
ある人はリハビリに来られていて、匂いを感じてから、もう家で静養していた方がよいのにと思うのですけど、その方の家族はよかれと無理やりでもリハビリに連れてきているようで、私はなんとも言いようのない気持ちになります。
どうして自分だけこんな匂いを感じてしまうのかわかりません。このまま普通に過ごしていてよいのでしょうか?
何か私は行動をしなければいけないのでしょうか?
今日は3人目の匂いを感じた方の死に際に立ち会いました。この方は家族と絶縁状態で孤独な方でしたが、死に際にたまたま私が立ち会いました。
私はとても疲れました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういえば以前そのような猫の話をテレビで見たことがあります。
その猫は病院で飼われていて、死期の近づいたお年寄りの側にずっといる様子でした。
わかるのでしょうね。
あなたも同じかもしれませんね。
特別何かをする必要は無いと思います。
出来るだけその人に寄り添ってあげてください。
それだけで安心すると思いますよ。
安らかな死を迎えられるようにしてあげたいですね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

ご成仏をお祈りなさってください

拝読させて頂きました。私達は生き物ですからあなたがおっしゃるような感じとる力はあるのではないかと思います。科学や医学が進歩して人の死を左右する様になり、死の実感が薄れてはいるものの感じとる力は本来あるものと思います。
そう感じとる力によってこの世の道理や仏教の教えの諸行無常の教えを実感することもできるのだからです。
ただやはり感じとることによって疲れてしまうでしょうからあまり疲れ過ぎないようにお気持ちの切り替えも必要かと思います。
またもし感じるときありましたらその方々が仏様にお導きを受けて仏様のお浄土に生まれ変わり心安らかにご成仏頂きます様にとあなたは心の中でお祈りなさってくださいね。
その祈りがあなたの身も心も浄めることになりますからね。

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個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

一切を活し、生かす道を歩むのです。

人がこの世に存在するのはその人をして最高の人生に向かわせるめに存在していると言えます。
だからこそ仏教は「菩提心」を説くのです。
自分のチカラをもって人類に貢献するのです。
あなたに必要な心こそは「菩提心」です。 
自分自身の人生を最高のものにしようという誓願と、世の中の方々の為にすこしでも自分のもてる限りのチカラをもってお役に立とうとする気持ちです。
悟りを求め、菩薩の心の実践につとめるのです。
誰が人をして不幸にするために存在していると言えましょうか。
私もあなたもいつか死にます。
ならばこそ生きている間に人間のその有限の命を最高に咲かせたり、できる限り長く生きてもらったりとあなたのチカラを使ってその人の命を長く伸ばしてあげましょう。
この世に仏や仏心が無くなったら、人はエゴの炎が長生きします。
仏の心を長生きさせてあげられるようにお勤めkダkuz

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。今の仕事に就いていることにずっと疑問をもっていましたが、少しでも役に立つことがあるのでしたら、この仕事に就いてよかったのだと思います。
今朝はとても身体がスッキリしています。今日も一日、お仕事頑張ってきます。

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