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自分の選択と結果が苦しい

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はじめて相談させていただきます。
二人の子を持つ兼業主婦です。

今までフルタイムで仕事をしてきましたが、この冬に入り、仕事と家事の両立が体力的にきつくなり、帰宅すると、息をするのもつらかったり、めまいや吐き気、腹痛などもおこり、食事も前のように食べられなくなり、涙もとまらず、このままだと、精神的にもおかしくなってしまうと判断し、職場にお願いして、パートに切り替えさせて頂きました。

しかし、夫は、今は具合が悪いからそう思うのであって、老後を考えるとフルタイムを続けた方がよい、今は動くべきではないと、話していました。そのことで口論になり、最後は夫があきらめました。

私の具合が悪いので、実母が助けに着てくれていた矢先、実母が普段介護していた祖母がなくなり、私の体調不良がなければ、祖母もまだ生きれたのかも、とも自分を責めています。

また今、体調がよくなってきて、冷静に考えると、夫の言っていたことも正しく、今度は実母の老後も見ていきたいという思いもあり、フルタイムを辞めなければよかったとも思います。

人手不足の職場にも迷惑をかけていますが、今さらフルタイムに戻ることも、手続き上できません。

八方ふさがりに思ってしまうのは、自分に覚悟がなかったためだと思いますが、あのときの精神状態では、あの決断しかなかったとも思ったり、また、私がもう少し堪えてフルタイムを続けたならば、祖母も母のことも丸く収まっていたのではないか、とも考えてしまい、苦しいです。

仕事は好きでやっているので、仕事も沢山できないのも辛いです。どのような心持ちで人生を送ればよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現代的出家精神のススメ

人に迷惑をかけてはいけないという事で頑張りすぎて死んでしまった人がいます。
まずはそんな風にならないことです。
一旦すべての条件付けや立場なんぞ捨てて考えてみましょう。
私は◌◌の妻である。
私は◌◌の娘である。
私は◌◌と○○の母親である。
私は∇∇の従業員である。
こういう肩書きやお立場を全部忘れてただの人を生きることが禅です。
自己の本来の主人公、無為の真人は決して失われる事はありません。
あなたは絶対的なあなたなのです。
出家という生き方を学んでください。
別に頭を丸めるという事ではありません。
人間ルールに縛られることなく涼やかに生きるという事です。
職場の人間も一生の付き合いではありません。
取り込まれないことです。
優先すべきは家庭でしょうか。職場でしょうか。夫でしょうか。子供でしょうか。
それを考えるご自身のお命ではないでしょうか。
あなたがあなた自身を生きられるようになることです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたの選択だけですべてが決まっているわけではない

もうすぐお釈迦様の命日なのですがご存じですか?
おさとりを得てブッダと呼ばれるようになったお釈迦様は、その後40年にわたって旅を続けながら法を説いて歩きました。
しかし80歳を過ぎて死期を悟ると、故郷を目指して旅を始めるのですが、クシナガラの町でついに動けなくなり、沙羅双樹の下に横たわります。
そして自分をとり囲み涙を流す弟子達に、最期の言葉をかけました。

さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい』

「私自身の肉体も事象のひとつであるから、必ずいつか滅びるものである。皆は私の死にこだわることなく、(私の説いた法をよりどころとして)怠ることなく精進しなさい」

といった感じでしょうか。

もものはさんもその場その場の状況に応じて人生の選択をしてきましたが、その成り行きでどのような結果が出ようと、そのことをあれこれ思い悩んでいては先に進めませんよね。

この世界のすべての事象は「因と縁」の組み合わせによって、常に変化しながら流れています。
もものはさんが体調を悪くなさったのも、お祖母様がお亡くなりになったのも、すべてはたくさんの因と縁の成り行きです。

あなたの選択だけが原因ではないのです。

いまある状況について、よいの、悪いのと区別をつけて、喜んだり、落ちこんだり。
人はどうしてもそうやってしまいますが、そんな間にも時間はどんどん流れていますよ。

諸行は無常である、すべての事象は空であるとお釈迦様は説き、その上で怠ることなく努め励みなさいと、最期におっしゃいました。

もものはさんも、今この瞬間を精一杯努め励めば、それでよいのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの苦しさや痛みを共に分かち合い、少しでも和らげることができれば幸いです。
自分自身も重度の知的障害児を育てながら家事と仕事で忙しくしています。 外に出ていることも多いので、なかなか時間がとれないかもしれませんが、なるべく時間が許す限りお話を聞きます。

質問者からのお礼

林様 有り難いおことば、ありがとうございます。
諸行無常 すべての事象は空
そうですよね、あれこれ悩んでも、時は流れるのですね。

自分の時間が少し今増えたので、お釈迦様の教えを本で読んでみたいと思います。

自分の選択ですべてが決まっている、苦しいのは自分のせいと思い続けて来たのて、そういうことではないと過去にとらわれすぎずに、前向きに生きたいと思います。

本当にありがとうございました。

丹下様 おことばありがとうございます。はっとさせられました。

今まで自分をいつも後回しにして、家族のため、会社のため、母のため、と常に周りがよくなるように、喜んでくれるようにとばかり、考えて、自分の健康や楽しみを押し殺して、ひたすら頑張り続けて生きてきた気がします。

私の身体も悲鳴をあげていたのに、頑張れ頑張れとひたすら走り続けなければ、生きていけないんだと、思い込んでたどり着いた結果だと思います。

おっしゃるとおり、私の命がまず安らかに存在して、毎日を生きて、周りの家族たちにも安らぎを与えられることが、幸せを産むんだと思います。

今は仕事を減らしたためか、少し余裕が出てきたので、出家という心持ちで生きることについて、学んでみたいと思います。

本当にありがとうございました。

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