気をつけたいこと
最近、先生に少しの発言でも呼び出されてお話を受けます…
なんでそんな些細なことで?私だけなんで?と言いたいことはたくさんあるのですが、いったら問題になるのは目に見えており、なんかもうモヤモヤした感じです。
自分を自分でみる目の持ち方
もっと柔らかく物事を捉えるようになれる方法はありませんか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なんで?
「なんで」ってタイトルでごめんなさい。
でも、正直に言って、あなたのご質問がよく分からないのです。
「自分を自分で見る目」…の持ち方?「主観的にしかなりようがないから、人から”貴女はこう見えるよ”と言われたら、一旦すなおに聞き入れるべき」とか?
「もっと柔らかく物事を捉える」…いま、どこに「自分の捉え方における堅さ」を感じているのでしょうか?「言いたいことはあるけれど、言ったらどうせ問題にされる…に決まってる!」ということ?
想像するに、「なんで?」という言葉を広く使いすぎて、見えにくくなってしまっているのではないでしょうか?
「なんでそんな些細なことで」…「私には些細なことに思えるけれど、先生にはそう見えないみたい。どんな点が問題と思ったのですか?」…これは分かる。
「私だけなんで」…「みんな同じ発言をしているのに、私だけ呼ばれるのはどうしてでしょうか?」これ、本当にそうなのかなぁ。「みんな同じ」に見えないから、あなたが呼ばれたのでしょう?「言葉は同じでも私だけが…というのは何故ですか?」これは聞いてみたいよね。
で、これらを言わないからモヤモヤするんでしょう?その場だけ項垂れて(うなだれて)先生の話を「はい…はい」と聞き、終わったらケロリと…できないんでしょう?それ、聞いた方がいいと思うなぁ。
実はね、そうやって「先生からはこう見えるよ」というのを聞くことが、「いろんな見方(=柔らかい見方)ができるようになる」ための道だと思うのですよ。「自分としては…」だけに固執しているのって、「柔らかい見方」とは思えないでしょう?
あなたが「柔らかい見方」という言葉を使った理由はよく分かりません。最初の問いで「お笑いに学ぶ…」と答えて戴いたので、それを実践しようとしたのかな…とは思いますけれど。でも、「ものの見方に幅を持ちたい」のであれば、「他人からの見え方」を言葉にして聞いておくのは、役に立つと思いますよ。