逢うことのかなわなかった祖父母の御供養
父方の祖父母の事が気になります。
今日、霊鑑定の先生に視ていただいて『とても因縁を感じる』とのお話でした。
祖父は父が幼少の頃病死したそうです。
祖母は父の産みの母ではなかったのですが、病床の祖父を置いて黙って家を出たそうです。
私は祖母には会っていましたが、お正月の年一回かつ中学生位までしか会いに行きませんでした。そして、私が学生の頃独り家で亡くなったそうです。
私は知らされずお葬式にも出られませんでした。
ここ最近、なぜか急に二人のお墓参りがしたくなり、先生に視ていただきました。
私は『因縁』という言葉を伺って、二人の孤独や悲しみを想うと涙が止まりませんでした。
キリスト教を学んでいた私ですが、お寺での御供養はしても構いませんか?
数珠さえ持っておりません。
どのような準備をして御供養すれば宜しいでしょうか。
二人が可哀想で、どうにか二人に幸せになってもらいたいのです。
どうぞ宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
他者への共感は、私を育てて下さいます。
子の母をおもうがごとくにて
衆生(しゅじょう)仏(ぶつ)を憶(おく)すれば
現前当来(げんぜんとうらい)とおからず
如来を拝見うたがわず
親鸞聖人「浄土和讃」より<浄土真宗の教え>
父母や、先にいのち尽きてゆかれた方を思うお気持ちを、気持ちに止めず、どのように振り向けていけば良いかというご質問と聞かせていただきました。
ところで、件の先生に示された『因縁』というお言葉を、貴方はどのように聞き、受け止められましたか。
仏教はまさに因縁の教えです。世界のすべて、いのちのすべては因縁に依らないものはありません。因縁はよろこびもぬくもりも、ご恩も希望もすべて摂めとる仏さまの「はたらき(仏さまのお慈悲)」ですが、私たちはついつい因縁という言葉を悪いこと、後悔や無念、死後もなお報われない迷いや、子孫にふりかかる不幸の種であると、否定的に捉えがちです。
私たちは過去を悔やみ、失敗を繰り返しながら生きる存在ですが、私の大切ないのちが、死後もなお迷いや孤独の悲しみにあるとしたら、私たちの人生の「すくい」とは、何でしょう?
冒頭のお言葉は、浄土真宗の教えを開かれた親鸞聖人という方が示されたものですが、
親鸞さまは、阿弥陀如来のすくいと、往生成仏の道を示されました。
いまを生きる私もあなたも、周りのいのちも、いのちある限り、苦しみや悩みから離れることは叶いません。(キリスト教、聖書には人間の原罪とも、神との断絶とも示されていますね。)
では、悔い改め、自らを省み、いのちの可能性を見ていくことは出来ないのでしょうか。
「子の母をおもう」とは、時に人間同士ですから愛欲や怨憎も心に去来します。しかし、人間の本来性に立ち返れば、幼子は母をおもう如く、心からの信頼とぬくもりをもって「仏を憶する」~亡きいのちを思うことが出来るはずです。
子はいつまでも子。母はいつまでも母。その母のご苦労やご恩に気づけるとき、「親孝行したいときに親はなし」とは言いますが、仏として私のいのちの側に寄り添い、共にいのちを生き抜いて下さる「仏さまのお慈悲」を伺いますと、別の道が開かれていきます。
儀式儀礼としてのご供養の形もありますが、私が亡きいのちに何かを差し上げるばかりではなく、私が母から何を聞かせて貰うのか、仏さまのお慈悲を共に訪ねる道をアドバイスさせて下さい。
質問者からのお礼
今の私があるのもご先祖様のおかげです。
皆が心穏やかに花咲く場所で暖かく暮らせるますように。
私にとっては因縁という言葉はメッセージの気がします。何か大切なものを気づかせてくれる、とても悲しいメッセージに聴こえます。