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信仰心のない母との衝突

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有り難し有り難し 5

お仏壇の宗派変えの件はまだ解決しておらず、ご本尊もそのままです。
というのは、ご本尊や掛け軸を置く台がないのです。
調べましたら、掛け軸は画鋲で刺してありました。こんなことってあるのですか。

もともと近所の某マンモスカルト教団の信者が母に無理やり買わせたお仏壇です(カルト教団の物ではなく真宗大谷派です)。高さは160cmほどあり、母は邪魔だから捨てたいと言っています。

私は自室で手作り手元供養台の前でお勤めをしています。それが母には気に入らないらしく、
『一つの家に二つの宗派があるのはおかしい。』
と言い出しました。気分が変われば別の言い方をします。

なので私が、
『仏教に対する信仰心はあるの?』
と尋ねると、
『ない(キッパリ)。』

大きなお仏壇も見れば見るほどアラが目立ち、仏具にしてもあるはずの物がなく、なくてもいい物があったりと、本当にお粗末です。母は断れないタイプなので、高額の買い物だったと思います。

お仏壇の下取りにしても、私の仕事になるでしょう。何にせよ自分から動こうとはせず、向こうから誰かがやってくれば頼んでしまって、結果的には騙されます。

それでいて、どこそこはお寺が多いから行ってみたい、などと言うので、それは観光目的なのか信仰心(これはない)なのか、私としてはちょっと不愉快です。

お仏壇の話になると喧嘩に発展しそうになります。私は自分の意思で真言宗を選び、日々勉強したり、お寺での一期一会の出会いがあったりで、母に御手水の作法を話すと、
『どうしてそんなこと知ってるの?』
とやや目を釣り上げます。私の方こそ、『なぜお仏壇を買うことを断らなかったのか。』と言いたいところです。自分でお店を選んでの購入なら構いません。

親孝行したいところですが、信仰心をめぐる親子の対立は避けられるものなのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

面々の御はからい

こんにちは。

まずは、お軸を画鋲で止めるのはお仏壇では一般的です。宗派の紋を模った画鋲もあるくらいです。それが普通の画鋲だとしても、そういうものとお考え下さい。

仏壇の始末については、購入の経緯は別として、高額であれば猶更「断捨離」を躊躇したくなる気持ちは理解したいところです。中古の下取りはたぶん無理です。かなり高価な本漆、本金箔、人間国宝の彫金仕上げでも、こちらが処分料を出すケースが殆どです。
なお、他宗派についてはわかりませんが浄土真宗では有償無償に関わらず「お焚き上げ」は不要です。

もうひとつ、母娘の衝突のキーワードである「信仰心」について、すこし私の考えを聞いてください。

真言宗さまではあまり用いないかもしれませんが、浄土真宗では『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』という浄土三部経を大切にしています。
それらのお経はいずれも「如是我聞」という言葉で始まります。「如是」とは、かくのごとく、かように。「我聞」とは、われは聞く。
「あるとき私は、お釈迦様の説法をこのように聞きました」と始まるのですが、この「私が聞く」という営みを仏教は大切にします。なぜなら法を説かれるのは唯一仏さまであり、私はただ法を聞き続けるのみ、自らめずらしい法を説ける存在ではないからです。

信仰心について、浄土真宗では「ご信心」と言い換えても良いかもしれませんが、「よく見なさい、こんなにわたしは念仏している」と見せつけるのが信心ではありません。「こんなに熱心に信仰しても、口から念仏ではなく恨み辛みが出てくる」と自らを省みるのが信心のありかたのひとつです。(じゃあ誰が念仏させてくれるのか、念仏は自己のはからいではなく、仏の願いの声が私の口からこぼれてくるというカラクリです。)

とはいえ、どこまでも人間同士ですから、貴方自身がいかに省み慎んでも、お母様の愚痴がすぐに減る訳ではありません。そこに信仰心の是非、有無、大小、真偽を重ねても、そもそもの仏教や信仰に対する共通理解がなければ、はなしが噛み合うはずもありません。

それで、表題の言葉です。
親鸞聖人は『念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり。』と示されました。
「念仏を大切に信じ生きようとも、捨てようとも、それぞれにおまかせ」という、一見投げやりなお言葉の真意を伺いたいものです。

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有り難し
おきもち

北海道の内陸にある浄土真宗の寺院を預かっています。法名(仏弟子の名前)、釋...
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質問者からのお礼

真慧様、
ご回答ありがとうございます。
信仰心を持って生活すると、ともすれば驕りに発展する可能性があると思います。
例えば、私は五体礼地や瞑想で得られた感覚を、(信仰心のない)あなたには分からないでしょう、と思ってしまいがちです。
お勤めも自分の意思でやろうと決めたわけで、み仏はそうでない人も見守っておられると思います。
もともと利益を求めて始めたわけではないのです。

お仏壇に関しては、不具合なところがあるものの、立派ではあるので毎日ここで勤行ができたらいいなあと思っています。なので、処分したがる母はしばらく放っておくことにします。気分屋で忘れっぽく、大仕事は自分からはしません。

仏教に関心がないという母もみ仏は見捨てないでしょう。

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