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蓮の花を持っている?

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くだらない内容で申し訳ありませんが
少し気になったので質問させていただきます
昔小学生の頃、お寺でお坊さんと母達が話しているときに
「この子は蓮の花を持っている」と私にむけて言われたそうです
私はその時の事を覚えてないので
なんて話してたのか忘れてしまったのですが……

蓮の花を持っている、とはどんな意味なんでしょうか?
こんな質問で本当にすいません、
暇な時にでもご回答お願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

妙法蓮華

きっとあなたは蓮の華のように、過去の泥に染まらず清らかな様子で生きておられる、いずれ世界を平和や幸福に導ける力を持っているという意味でしょう。
あなたが持っている力を駆使して、どのような形でも結構ですから、誰かを助けてあげてください。
また、これをご覧になられた方も、みな、誰もが蓮の華を持っておられます。
過去の煩悩の汚泥を厭い嫌わず、菩提のエネルギーとして、大きな幸せ、安らぎの花を咲かせましょう。
ハスの華は泥より咲いて、泥の色に染まらないように、私たちも、誰もが過去の痛ましい経験を、もう、この心身には残してはいない無執着、無染着のありようなのです。
憎しみ合っている世の中も、ただ記憶を何度も掘り返して思い起こすことがあるだけです。
思いの上で生きることは、負の記憶と負の未来の幻を相手にしている事で、本当に今を生きている姿ではありません。
過去や未来の負の泥沼ばかりをずっとかき混ぜ、今を咲いていない、今を見失っていることになります。
この道理を知らない人は、蓮の華をまだ手にしていながらも自覚がない方々です。
ですが、人類だれもが余すことなく、蓮の華を持っています。
蓮華は無常、無我、涅槃のシンボルです。
過去のどんな苦しみも釈尊の説かれた「諸行無常」であるが故に、前の事を残さず、今という花を咲かせて、救われています。
それが諸行無常の本当の真意です。
そして、無我であるが故に、一切は誰のものでもなく、何ものにも所有されず、自由なのです。蓮の華も自らの身心もそれ自体が、人間の思いや願いや求めを離れているが故に無常、無我にして安らかなる姿、涅槃なのです。
それが蓮の花に添えられた、仏教徒の花言葉です。
諸行無常だから散っていく、枯れてゆくというネガティブな目線は日本の仏教者たちの最大のあやまちであったといえます。
本当の蓮の花、諸行無常とは、誰もがいつでも過去を終わらせて、救われているという救いの法則なのです。
この道理に正しく目覚められた方は、まさしく妙法蓮華を持しているのです。
その花を咲かせるのも、思いや理に堕するのも、つぼみのまま開花させないのも自分次第です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

清らかな心

蓮の花を持っている。
良い言葉ですね。

仏教では、蓮台といって、仏さまは蓮の花の台に乗っておられることが多いですよね。

ではなぜ「蓮の花」なのか?

蓮の花が池や沼などに咲いているのをよくご覧になると思います。

蓮の咲いている水面は綺麗に見えますが、池や沼の底は濁った泥がいっぱいに溜まっています。

蓮の花の根、つまり蓮根(レンコン)は、 深く濁った泥の中にしっかり根を張って力強く成長します。
そして、どんなに濁った水の中からでも、あの清らかな大輪の花を咲かせるのです。

お釈迦様は、衆生の欲に満ちたこの世を「濁った池」に喩えられました。

そして、我々に「どんなに煩悩や欲に満ちた世界でもそれに染まることなく、綺麗な花を咲かせるんだよ」と、仏になることを「蓮の花」に喩えられたのです。

きっと、そのお坊さんは、お子さんを見て、泥の中からでも綺麗な花を咲かせる蓮のように清らかなものを感じられたのでしょう。

「清らかな心を持っているね」という意味で「蓮の花を持っている」と仰ったのだと思います。

素晴らしいことです。

お子さんの綺麗な心をのびのびと育ててあげて下さいね。

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おきもち

生まれながらに仏である

人は生まれながらに仏である。悟っていると言われています。

まさにそれが蓮の花というとこではないでしょうか。思い、考え、悩み、苦しみに染まらず、真実を見極める目をすでに持っています。そこに気づくことができるか否か。気づこうとしているのかどうか。
そこが大切です。

思いに騙されることなく、真実をしっかり見ることのできる人になってください。その時あなたの蓮の花は開くのでしょう。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

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