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休日の過ごし方をどうすれば…

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

こんにちは。
私は千葉県に住んでいる26歳です。職場は東京にあり、毎日仕事帰りは21時過ぎになります。この理由は勉強にあります。
医療関係に勤めていて日々目標の為に勉強を残ってしています。そのためか休日は遊んだりせずに勉強をしないと。と思い込んでいて余計に疲れてしまします。
彼女がいるのですがその彼女とも休日遊んだり気分転換になるのですが勉強しないと…といつも心に思っていて素直に休日を休めず、また私生活と仕事を両立できずに混在してしまっている生活になっています。
この状況が疲れてしまってこの度投稿させていただきました。
まじめすぎるとよく周りに言われているので考えすぎないようにしたいのですがそれができずに苦しんでいます。
どうかみなさんアドバイスをよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

精進 人間の本来の事実同期パワー

たとえば物事Aに集中している。
あきてBに夢中になる。
これは、どちらも集中している状態です。
脳は、自分がしたいこと、選択したいことを最終的に選択します。
ですから、あなたが休日に自然に優先している事を優先してみてください。
どのみち、そっちを優先します。
そっちをトコトン徹底的にやれば、それも飽きます。
坐禅ビジョンは、出来事全てにその時、そこで出会っている限りです。
私はこれを打ちながら1歳の子供がハイハイしながら謎の行動をしているので、時々手を休めます。
子供の動きに夢中になっている時にはそっちに集中しているのです。
それが終われば、また、こちらの文章を入力しています。
人間の五感のハタラキは向かっていることに集中していない時などないという事です。
これを精進といいます。
精進とは努力のことではありません。
本来の五感が向かっている事実に忠実にぴったり同化していることです。
だからこそ、この力を駆使して、為すべきこと無し、遊ぶべき時は遊び、彼女と過ごす時は、彼女に一心に向き合ってスマホやら他のことやらに気を向けないでいてあげてください。
気が付いたら二兎を追う者は一兎をも得ずなんてことになりませぬよう。
アツアツのラーメンとアツアツのあげたてテンプラを食べるとします。(ヘビーですが)
アツアツのラーメンに集中すべき時はアツアツのラーメンに集中すればいいのです。
「(-_-;)ああ、こうしている間にサクサクのテンプラがしなしなになってしまう…」と考えればそれが迷いになって、麺のコシすら忘れて味もしなくなります。
サクサクのテンプラを食べるときは只サクサクを味わえばいいのです。
「(-_-;)ああ、こうしている間にラーメンの麺が伸びてしまう」などと考えるのは、テンプラのサクサクを楽しめません。味もしません。一つを追っている時に余念や他念を交えず、純一に。ラーメンの時は🍜ラー、ラーメン。テンプラの時はテンプラー。
この身心にはその時、その時、あなたの意思や思いとは無縁に、実際にこの身心が向かっていること「しか」行われていないのです。
その本来のモノと一体になった精進性を自覚して、その働きを円滑にさせていくことが精進を勤める心です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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