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やる気がないと思われたくない。

回答数回答 3
有り難し有り難し 18

初めまして。
3年ほど悩みつづけていることがあります。
このような企画がありましたことに感謝します。
宜しくお願いします。

私は柔軟芸を練習しています。
肉体的にも精神的にも厳しい世界だと思っています。
2009年頃から毎日コツコツ練習を継続してきました。

2012年に妊娠と出産をし、現在は子育てをしております。
家業を継ぐため、仕事も並行しています。

当然ですが、柔軟芸の練習時間を確保することが難しくなってきました。

私にとっては子育てと家業の後継が優先なのですが、
もちろん柔軟芸の練習も同等なくらい大切なものです。

しかし、子供を預けたり誰か代わりに仕事を頼める環境ではなく、
やむを得ず練習を休んでいる状況です。

先生や仲間に情熱を疑われたくありません。

どうしても練習したいのなら、
子供を置いてでも仕事を辞めてでも、
練習するべきだ

と思われているのではないか、と考えてしまいます。

情熱を伝えるために一生懸命に態度で示していますが、
結局は練習不足ですから、
私の気持ちは伝わっていないだろうと思います。

日常はとても幸福ですが、
この状況が苦しいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

月謝を払ってまで苦しむ必要はない

柔軟芸はどなたのために練習されているのでしょうか?

先生のためでしょうか?
仲間のためでしょうか?
それとも、誰にも悪く思われないためでしょうか?

もしそうならば、お子さんを預けてでも練習に励んで下さい。

いや、そうじゃない。
「自分が楽しいからやっているんだ」「自分のためにやりたいんだ」ということであれば、あなたの中での優先順位はもう決まっているはずです。

それで良いと思いますよ。

周りにどう思われるかの為に、月謝を払って習いに行っているんではないはずです。
あなたの達成感のために月謝を払っているなら、今は子育て優先で、出来る時間に思いっきり情熱を燃やせばいい。

どうしても周りが気になるなら、先生や仲間に「今子供に手が離せないから」と一言言っておけばすむこと。

本当に好きなら、情熱を認めさせることよりも、情熱を失わないこと。
情熱さえあれば、また同じように練習も再開出来る。

あなたの中での優先順位が変わって、どうしても柔軟芸がやりたくなったら、その時は子供を預けてでも練習に行けばいい。

やりたいことなら期間が空いても続けられる。
たとえ今は情熱が失せたとみられていても、再開すればまた認めさせられる。

あなたが想像する周りの人に頭の中は、実際の頭の中ではありません。
あなたが勝手に、人の頭の中を想像しているだけ。

あなたの心が、人から解ってもらえないように、あなたにも解らない。

疑われているんじゃなくて、あなたが疑っているんです。

あなたも周りもみんな一緒、頭の中で思うだけ。
勝手に想像して心を痛めてるだけ。
自分の想像を恐れているだけ。

そんな、あるかどうかも解らない想像なんか放っておきませんか?

今、あなたの幸せな日常があるなら、ご主人にとっても、お子さんにとっても、今が最高に幸せな日常のはず。

どちらを選ぶかはあなた次第ですが、今、周りの目に囚われて後々後悔しないように。

月謝を払ってまで、わざわざ苦しむ必要なんてありませんよ。

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おきもち

やる気がないと思われると、何かあなたの生活は変わりますか

やる気がないと思われたとしても、あなたの生活は何も変化しないでしょ。

人の心を勝手に想像し、悪い方向に向け始めると、苦しむのはご自分。そしてだんだんとお子様の存在も邪魔に感じられるようになってしまいます。

それは、真の姿ではないでしょう。お子さんが何より大切なことは、誰にでもわかること。仮にお子さんがいなくて、親の気持ちのわからない方がいたとしても、それはそれ。

あなたは間違えなく怠けてません。修行しています。
考えや妄想に振り回されず、今目の前のお子さんを大切にしてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

それは「こう思われているのではないか」という貴女の思いである

人間は、自縛します。
自ら縛り、自らの思いで自爆します。
「ちゅどーん」
これぞ仏教の究極ともいえましょう。
「あらゆる苦しみは自爆・自縛」なのです。
あなたも自爆・自縛しているだけ。
人から苦しめられることって本当は「ない」のです。
全部自分の思いなのですから。
苦しみが起こってる箇所はどこでしょうか?
絶対に自分の心の中以外にどこにもありません。
ですから、人にいじめられる、悪く思われる、という行為をされてもこのカラクリを知っている精神の強い人は自らの思いに屈服しません。
いじめ、悪しざまに思われる、あなたでいうと「やる気がないっと思われる」という行為をされても自分の思いに屈服しなければ、相手に苦しめられません。
思われたとしても、別にどうってことはないはずです。
あなたがせいぜい自分の他者からの良い理想的なイメージをッキープしたいというだけですが、それも幻想です。
よって、弱い犬が強い犬に吠えてまるで動じていない様子を想像してみてください。
あなたはみんなが「こう思っているに違いない」と思っていますが、全員に一人一人確認をとりましたか?実際にとってみると面白い結果が出ると思いますよ。
「自分が思っていた世界とはまるで違う」ということを体験すると思います。
通常、妊娠したら仕事よりも自分の体、お子さんの事を最優先にすることをこそ最優先にさせるはずです。お子さんにとっても一生にかかわる問題ですから。
それが妊娠、出産、育児というものです。
これを差し置いてまで、あなたに柔軟芸や家業を優先させるような事は、周りの人であってあなた自身の意志であっても、今の時期はそっちをゆうせんさせる❝べきではない❞ことです。
自分のご都合の中では、これを優先させたいという気持ちがあるとしても、もっと優先すべきことは育児である❝べき❞です。
母親としてはこれを「したい」ことはあると思います。
ですが、お子さんの声に耳を傾けてください。
余談ですが、仏教には柔軟心(にゅうなんしん)・柔和質直(にゅうわしつじき)という言葉があります。
仏教を通じて、柔軟な心を持ち、時事の変化に応じて抗うことのない柔和にして、質直=それをその通りの事として受け止め、余分なはからいを加えないままに過ごしてみてください。
一生涯の柔軟芸となるでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

僧侶の皆様

ご回答くださりありがとうございます。
心より感謝申し上げます。

1に、私は周囲を信用していなかったことがわかりました。
2に、過去の私自身が本気の取り組みについて、
全てを投げてでも取り組んできたという事実がありました。
3に、現在は守るべきものがある環境の変化を改めて認識しました。

総合して、環境の変化があったにかかわらず、
従前と同様の判断と行動をしようとしていたことが大きな誤りでした。

情熱を持ち続けます。
次のタイミングが訪れることを信じます。

*******
お金を払ってまで相手に気遣ったり自分を苦しめたりしながら
練習をする、おかしな日々でした。
全く気持ちよくありませんでした。

あるヨガの先生からは意地悪(と勝手に思い込んでいます)
をされたり、
悪く評価されても気にしなければよいまででしたが、
私はとても悔しかったです。

その悔しいままでその場を離れたくなかったのです。
そして子育てを理由にしたくなかったのです。

しかし私は、子育て=人間、人格を造ること だと思っており、
簡単でないことを体感しています。

今回の相談によりそれを受け止め、自分に与えられた環境の変化を認めていきます。

自分に訪れた変化に気付きを与えてくださり、ありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

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