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緊張して本領発揮できない娘

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小学2年生の娘がいます。3歳からストリートダンスやチアリーディングをしていますが、幼い頃と違い最近は「勝ち」にこだわってしまう気持ちが本番での緊張に繋がってしまいます。
そのため本来できることがまったくできずに結果ボロボロに負けることが多く、そのことでまた本人落ち込んでネガティヴになり、悪いループで次々と負け続けます。楽しんでただけの頃は勝てたり、負けても楽しかった!で笑顔で終われていたのですが、いまの彼女の様子、どうしたら本人らしく本番で踊れるようになるか親として悩んでいます。

本番前楽しんでおいでと笑顔でリラックスさせたり、手作りお守り持たせてみてもやっぱりステージに立つと緊張して負けてきます…。

娘がダンスバトルなど勝ち負けのあることに挑戦するとき、親の私はどうしたら緊張せずに楽しめるようにリラックスさせてあげられるでしょうか??


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親の期待にこたえようとしなくていいよ、と。

丹下もギターを弾きますが、LIVEにおいてはウマく弾こうとかではなく、かっこつけようとかでもなく、人目も気にせず、忠実に「ただ」弾こうとすると普段の力の通りに弾けるものです。
ひょっとしてヒョとすると、|д゚)おおお…お嬢さんには、おおお…(推測)、おそらく「母親の期待に応えなければ(殺される的な💀)呪縛」(;゚Д゚)があるかもしれません。
それは言い過ぎですが、1000歩譲って小さい頃からお母さんエネルギーを強くぶつけてしまってきたりとか、強く言い過ぎたみたいなことが無自覚ながらにありませんでしたかね?
何かすると、お嬢さんがイヤになるほどに怒る、とか。
まず、それがあるとすれば、そこをほどいてあげましょう。
一番いいのは第三者を通して親子で、本音を話すことです。近所のお寺で一万くらい包んで小一時間、お悩み相談にでもお願いすることです。
お互いに、お互いから自由にさせることです。
それが出家の有り方です。
「出家的態度」で、互いに観賞することなく

そうすれば共通の一体感が生まれて、互いに親子呪縛(娘さんはお母さんの期待に応えねば、お母さんは、心配呪縛)からの解放が得られて、気持ちが専一になるでしょう。
「心配」とは子供側にとっては「打ち消し・否定」となってしまうものです。
母「(ため息)…、ああ、この子が心配だわ…(あなたはダメねぇ)」
娘「わーん」
人は心が拡散しなければ、専一になれるものです。
お嬢さんが、お母さんを気にしなくていいんだ、勝ち負けを気にしなくていいんだ、自分を自分の通りに表現できればいいんだと、自覚できれば気軽にプレイできるようになるものです。
張り合いや勝ち負けということは、スポーツマンシップではなく、勝負、優劣です。
どうせ負けるなら、自分を出し切ったらいいのです。
そこに跡から、優劣や勝ち負けという負担が入り込むから、純粋にプレイできなくなるのです。ただ、なすべきのみをなすのみ。
評価は他人の決める事。どうしても好き嫌いや、派手さがある方に評が入ちがちです。
ヒョとすると、おおお、お母さんの方が勝ち負けにチョとこだわっていませんか?
全くないわけではないでしょう。
お母さんがホンットに勝ち負けにこだわらず、お嬢さんが自分の力をフツーに発揮できる事に気持ちが切り替わり、お嬢さんを楽しませてあげるようにサポートしてさしあげましょう。♡

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ストリートダンスの周辺

ストリートダンスが学校の授業に取り入れられたり、
社会的な認知と理解が広がっていることは良いのですが、
現在のストリートダンスをとりまく周辺の様子を眺めて見てください。

とりわけ、小学生以下の子どもたちのそれは、
まさにご相談のような「バトルの勝敗」や優劣を過度に煽る状況があるように感じます。

少し題材は異なりますが、北海道などで盛り上がりを見せていたヨサコイソーランは、
コンテストの優劣に衣装や振り付け、山車に相当高額なロイヤリティが絡んだことで、
市民一般の「踊りを楽しむ」ものから遠い所へ行ってしまったという批判があります。
もちろん、そうではないとする反論もあるでしょう。

この問題の核心は、小学二年生という年齢のお子様にとって、
ダンスバトルの勝敗が、人間的成長や教育的効果として、適切かどうかという判断です。
競い合い、自らを高める。あるいは失敗や敗北を経験して成長するという経験は必要なものですが、いまのお子様の年齢や、現に心配されている状況を冷静に見て、
このままの環境で、それでも負けない強いココロを促す必要が本当にあるのだろうかと疑問に思います。

極論かもしれませんが、緊張と失敗の連続と、そこを乗り越える以外に逃げ道のない状況は、幼い子どもにとってもPTSDに発展する可能性は十分にあります。

もっと簡単に言うと、
「嫌なら辞めてもいいよ(それでも母はあなたの味方だよ)」という態度をとれるかどうか、ではないでしょうか。

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個別相談可能
北海道の内陸にある浄土真宗の寺院を預かっています。法名(仏弟子の名前)、釋 真慧(しんえ)と申します。 私へのメール ichijoji@outlook.jp ウェブサイト http://tompe4.wixsite.com/ichijo-ji お寺のほか保育園/学童保育を運営、日々子どもたちと向き合っています。心身の障害や発達障害の子ども、ご家庭の困難などに丁寧に向き合っていくことを心掛けています。保育園はすべてベクレルフリー食を実践しています。

質問者からのお礼

ありがとうございます。たしかに、つい、口に出してしまうマイナス表現心当たりあります…。。娘がなすべきことがなせるよう、一歩引いて見守ってみます!

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