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好きな人の忘れ方を教えてください。

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有り難し有り難し 24

奥様のいる方を好きになりました。
私の気持ちに気づいてくれて、告白までさせてくれました。
優しい方なので「ごめんね」と言ってくださいました。
そして「お互いのこともあるから、今までどおりでいようね。急に距離をとったり、冷たくしたりとかすると、辛いよね」とも言ってくださいました。

少しずつ心の折り合いがついてくるごとに、自然にお話できるようになってきましたが、やはり心のどこかで彼のことを想う自分がいます。

好きな人の忘れ方を教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それが真実ならざる愛と自覚すれば自然に引っ込みがつきます。

あなたが以前好きになった方や結婚された方は「この人こそ一生の…♡」と思ったはずです。…で、実際今どうでしょうか。💀
良き思い出にしたい気持ちを優先させずに冷静~に振り返れば、一時の情かも?
人間の心は「とりつき」をおこします。👻
自分に優しくしてくれる人👻自分と気が合う人👻共感が多い人に勝手に運命の人♡とか感じちゃって相手が詐欺師でも愛しくなってしまうものなの!エルサ。※アナ雪参照
不思議なことに結婚詐欺師でも、相手が騙しているのに関わらず「好き👻」になるとモエるのです。
それを人間はデリケートな言葉で♡~く収めます。そうです。「すきィン♡」ということばや「愛してるゥン♡」という言葉で。
この際、不倫道に進まないためにバッサリ申し上げます。
ゲス不倫や、結婚詐欺、恋愛と冠した事実上の遊び・快楽・刺激目的の本質をみない男女関係はお互い都合のイイ利用関係なのです。
たかられ、ヒモになり、♂♀だけの関係、ゆすられたり、殴られたり、苦界に身売りされたり、薬漬けにされたりになっても「すき」だけでまとめられましょうか。
それは単なる「事実誤認」というべきもの。
確かに相手に対する行為やこだわり・ほしがりが生じているのは事実です。
ですが、現実の実際の状況も合わせての現実の事実なのです。
詐欺は詐欺。不倫は不倫。実りの無い恋は実りの無い恋。…と明らかに見定めていくのが、事実誤認の無い冷静な恋愛判断力です。
まだ30代という若さです。不倫ではない恋愛と出会いましょう。
恋する自分に恋して、自分に優しくしてくれる相手が好き、自分を肯定・承認・受け入れ・好きになってくれるからその人が好きというのは自己ラブが深く関係しています。だから人は不倫に走ったり、冷静さを欠いた周りに配慮しない疑似愛に溺れてしまうのです。
何を想うべきか。
「そのくらい人間の我欲。マイストーリーというものはおぞましく、自分を欲愛させようと働いている👿」という👿myエゴエネルギーに気づいてみてください。
恋の恐ろしさとは恋という名の自分ラブの可能性💀
好きだというその口は自分を愛せと言っている…可能性があります。
だって本当に好きなら相手の幸せを考えて身を引けるでしょう。
我欲・ラブ欲に負けて相手の家族を泣かせればそれは「彼を愛している」と称するUSO800。事実上略奪嘘愛で自己嫌悪に陥ります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

新しい恋

それはやはり新しい恋でしょう。。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下 覚元ご住職様
回答ありがとうございます。「略奪嘘愛」という言葉にはっとしました。好きだというその口は自分を愛せと言っているという言葉も、なんだか心に刺さりました。お相手のご家族のことを考えれば、そして彼が今その人たちといることが幸せであるのなら、ここで私がそれを奪うのは彼の幸せを奪うことなのだと思うと悲しくなりました。きっと私がわがままを通して彼とそういった関係になってしまうのは、本当に彼のことを好きなのではなく、私欲を満たしたいだけなのですね。反省して、見つめなおしてみようと思います。ありがとうございました。

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