hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

父と娘の死の悲しみを受け止められません

回答数回答 2
有り難し有り難し 50

家族の死を受け止められません。

双子を妊娠しましたがトラブルがありました。
片方の子に障害が出る可能性があり、早くだしてあげなければ命が危ないと言われました。
同時にもう片方の健康な子も出してしまうことになり、二人を早くだすと二人とも障害が出る可能性があるが命は助けられる確率が上がると言われました。
すぐに決断しなければ双子の命が危ぶまれる中、健康な子を危険にさらすこと、万が一のことが起きたら障害のある双子を育てることに気持ちは揺れ、決心に二週間を要しました。
いよいよ帝王切開日を迎えた朝、片方の子の心拍は止まっていました。

無事生まれてくれた娘との毎日に幸せを感じながらも、もう一人の娘を亡くした日を毎日思い出しては、なぜすぐに産む決断をしてあげなかったのか、後悔を強く感じる日々です。
また、父も急逝で亡くしている為、朝送り出した主人がもしこのまま帰ってこなかったら、たまに会う母親がもしこのまま事故にでもあったらと毎日が恐怖です。
家族を失うなら寿命を全うしたような年齢でお別れしたいのです。

できれば毎日死に怯えず、朗らかに過ごしたいです。
また、娘を亡くした後悔をどう整理すればよいかわかりません。
気持ちの整理の付け方にアドバイスをいただけますでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間はそう考える。でも、生物はそんなことを考えてもいない。

ちょっと難しい話をライトにします。
ウチの子供がいくらにハマって困っています。
いくらはスーパーでも大変高価で手が届きません。
アンパンマンでイクラちゃんとか言うのをみて一回イクラを買ってきてあげたらその美味しさに目覚めてしまい100円回転ずしでも「イクラ、イクラ」って、サザエさんのタイコこさんバリです。シャケも食べられるようになりました。残酷なようでもシャケといくらで母子です。母子ともに人間様は頂きます。親子丼も母子ともに頂きます。ああ、可哀想に。でもそれは【人間が考えること】なのです。
この子は卵や乳製品が食べられません。アトピー性皮膚炎で毎日全身が痒くて泣いています。
でも本人は、親の哀しみをよそに楽しんでいる時もあるのですよ。
今朝私は年末に頂いた賞味期限切れのハムとタマゴを焼いて他人丼を作りました。
何百・何千もの米粒の可愛い命をみんなこの私が食べちゃいました。ああ、残酷な!このkuso坊主め。尊いブタさんとせっかくニワトリのママさんが生んだ尊いお命をたべちゃったのか。可哀想に。もっとヒヨコ、生きたかったであろうに。
でもそれも【人間の考えるドラマ】なのです。
蜘蛛の世界は共食いがあります。それがその生物の世界のさがです。食べられてあげるのでしょうか。食べさせてもらうのでしょうか。それは人間のとやかく言うことではありません。
そうして生き残った立派な蜘蛛は人間がいくら嫌おうが立派に生きています。
人間はクモが一生懸命、共食いの頂点や他者との生存競争に勝って生き延びてきたのに、見た目が気持ち悪いという事で蜘蛛の巣に引っかかった蝶などを助けることもあります。クモにとってはいい迷惑かもしれませんね。でもそれも【人間が考える事】なのです。
動物の世界でも生命力が強いものだけが生き残り、他は自身が育つ環境としてふさわしくない場合、死んでしまいます。
人間は沢山の精子を保有します。沢山の卵子を保有します。
受精の段階で沢山の同胞たちは死んでいきます。運が良かったのか、お先にどうぞと譲ったのか、どうして私たちは誕生できたのか。
【人間の考える事】なのです。
わたしは、意味をつけなさいと言う話をしているのではありません。
そういう意味づけによって人は苦しむのですよ、というお話をさせて頂きました。
人間が人間の見解によって苦しまなくなること。残酷でも、それも仏心といいます。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心からお悔やみ申し上げます。
南無阿弥陀仏

あなたがお子さんを見殺しにしたのではないと思います。おそらく、そのお子さんが、あなたと兄弟姉妹のことを思って、あなたに判断を遅らせ、自らの命を終わらせたのだと思います。
その子のためにも水子供養をして、あなた達家族がその子の分もこれから力を合わせて精一杯生きていく事を誓ってあげてください。

また、私達はいつ死んでもおかしくない儚い存在です。死に怯えるのも仕方のないことです。
だからこそ生きている今の瞬間を大切にしましょう。ご家族をしっかり愛してあげてくださいね。

南無阿弥陀仏

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ