過去の過ち
自分が過去にした間違いだと思う事は
(例えば親不孝、友達を傷つける言葉など)
今の自分が苦しみ事があるのならその罰だと思います。
悪いことをすれば、自分に返って来ると思いますが、そうでないとするならそれはまた許されない事だと思い、生きています。
それでもひとは少なからず間違いを起こさずに生きてこれないとも思います。
仮に罰が当たっていたとしても、そうでないと思いながら生きて行くのも、正しいと思えません。
どう考えて生き、罰を罰だと感じ苦しみの中でどう考えて生きたらよいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善い行いをして悪い行いをしない
拝読させて頂きました。
私達は生きていく中で己れの我欲の為や怒りや貪りや愚かな心によって様々なあやまちをしてしまいます。
それはやむを得ないことと説かれております。
なぜか?それは私達が正しい智慧を持たないからです。様々なものごとのありようつまり真理を受け入れて理解していないからです。
ですから私達は同じあやまちを繰り返してしまうのです。
そのあやまちを私達は反省して懺悔して同じあやまちを繰り返さないようにと心がけていくことが必要です。
善い行いをして悪い行いをしない、そして心を清め生きることが大切なことです。
どうかあなた自身もご自分の生き方を見つめていかれてこれからの人生を心清く豊かに生きてくださいね。
心の底の憎しみに気づく
お母さん様
こんにちは。拝見させていただきました。
自分が間違いだと思う事だけではなく、私たちは日々生きている事、例えば食事をするだけでも命を奪って生きていると言えます。あらゆるものは「迷惑」をかけながら生きている。そしてその事は罰を受けて償うのではなく、だからこそ感謝をし、自らの命を丁寧に生きることなのではないかなと私は思っています。
私がインドを旅していた頃、こんな話を聞きました。日本では「迷惑をかけないように」と子供に教えるらしいが、私たちは「人は迷惑をかけながら生きている」と教える。「だからこそ誰かの迷惑を受け入れられる人になりなさいと。それを聞いて思ったのは、迷惑をかけない事を教えることは迷惑をかけることは「駄目な事」というメッセージを伝えていることになるなぁと。
「罰である」という考え方を否定するつもりはありません。ただ、そう考えているのはなぜかと言えば逆に「罰を与えたい人がいるから」という場合があるのです。あるいは、
「これだけ自分はやってきたのにどうしてわかってくれないのだろう」
「そんなに悪い事は何もしていないのに」
「これだけ我慢をしてきたのに」
のにのにのにのに・・・・
自分の心を批判するのとは別にどんな言葉をかけてもらえたら楽になりますか?自分が言って欲しかった言葉を考えてみてください。そして自分の心に聞かせるように声にだしてみる。欲しい言葉だった時には心が少し楽になる感覚が得られると思います。苦しいのは「心の奥底では本当はそう思っていないから」です。自分に嘘をついているからです。まずは少し楽を感じる瞬間、感覚を取り戻すことなのかなと思います。合掌
質問者からのお礼
早々のお言葉ありがとうございます。
善い行いをして悪い行いをしない、を心に留めて生活していこうと思います。
そして自分の生き方を今一度見つめ直してみます。
お言葉ありがとうございます。
私は常に人に迷惑をかけないようにと生活して来ましたが、迷惑をかける事を悪い事と思っていました。
別のところで、許す事や受け止める事も大切だと思っていましたが、別の思いになっていたのかもしれません。
自分の欲しい言葉を考えて、心の奥の思いを見つけようと思います。