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考え過ぎてしまう

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

夫の親戚は、自分の実家のサラリーマン家庭とは違い、農業、自営業、住職さんなどが多く、
度々違いを感じることがあります。

お会いする機会があっても、言葉がスッと出てこない、
どう立ち振る舞ったら良いかわからない、
その度に萎縮します。

萎縮しても謙虚ではありません。
萎縮するとその後ずっと立ち直れません。
家に帰ってからも、夫に無理に笑顔を作ってしまいますが、
怒りも湧いてきますし、
一人になると悲しい気分が広がってきます。
気力もあまりありません。

萎縮し続けるとどうなってしまうのでしょうか。
また、どうして萎縮してしまうのでしょうか。

お考えをいただけましたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

所属しない方がよいタイプの人がいる

あまりにも世界が違う世界に入ってしまうとどうしていいかわからないという事があろうと思います。
正直に何をどうしていいかわからない、でいいと思います。
ただ、できることをやるだけで、中心にあってやる人がおられる訳でしょうから、無理に「それらしいこと」をしようとしなくていいと思います。
「わたしが関われることだけやる」
「お力になれることがあればさせて頂く」
「私がやらなくていいことは無理にやろうとしない」
仏教は出家を説きます。
出家とは頭を丸めるとか、儀式上で得度をするという事ではなく、実質的に出家的な生き方をする事です。
それは、簡単に申し上げれば自分をガツガツ前面に出さない、我欲の虜にならない、人の顔色を伺ったり、自分のエゴに振り回されるような生き方をしないということ等です。
その為にこそ戒律があり、やすらいの道を勧めるのです。
「衆を楽うものは衆悩を受く」といいます。
人を楽しませようとか、歓心を買おうとか、人の顔色を伺おうとしたり、無理矢理相手に合わせようとすることは、その自分の本心に反する事で苦しみを生じるように人間はできているのです。あなたが委縮しても謙虚ではないというのはそういう所ではないでしょうか。
ですから、善意は善意として捨てることなく、あなたができることがあればすればいい。
「なにかしなければいけない」という気持ちばかりが先走っていても、本当にどうしていいのか分からないのであれば、誰かに喜んでいただけるように勤めればよいのではないでしょうか。すると、自然に謙譲、謙遜の気持ちが生じて人に、喜んでもらえることの為に何かをすることが脳内で第一優先になりますから、結果的にご主人とも好い意味で分離して(ご主人ルールからも出離して)あなた自身の単体・単独・独立存在としての行動になりますから、ストレスや不安も無くなりましょう。
私はどこかに所属していながらも、所属意識を持ちません。
それが出離、出家の心です。
ですが、協力は致します。
ここのhasunohaのお手伝いもそういう姿勢です。
人は何処にあっても自分の為せることを為すのみです。あなたはどこの誰にも所属していないのです。それがあなたの元々の様子です。どこかに無理に所属すると精神的に拘束されるものですが、それは❝所属意識❞に拘束されているものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様 まず、質問文の拙さにも関わらずまるで状況を見て頂いたかのようなお答えに驚きました。多くの同じような状況をもつ人がいるのですよね。
おっしゃっていただいたとおり、「所属意識」に捕らわれていたと思います。このことに気づいた後、重荷がぐっと減っていました。特に、
「本心に反する事で苦しみを生じるように人間はできている」
「あなた自身の単体・単独・独立存在としての行動になる」
の部分が印象に残りました。自分は何かに所属していなるわけではなく、本心に添うことが自分の責任であり、自分にできることなのだと思いました。他のお話も全て心に響き、楽にしていただけるものでした。お言葉を頂き本当にありがとうございました。

追記いたします。
「何をどうして良いかわからない」で、良いのですね。
そもそも、そのようにしかできないのでした。(笑)

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