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家族の一員が死にました。私を恨んでいるのでしょうか

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私には飼い犬がいましたが、5匹いるうちの3匹目が亡くなってしまいました。私は専門学生で、母と2人で生活していましたが、生活のため働いていたり学業を専念していたりと、ココ最近はろくに飼い犬のことを構えていませんでした。

中々散歩にも行けず、トリミングにも中々連れていけれませんでした。せいぜい、頭を撫でたり、名前を呼ぶくらいでした。

そんな忙しい中で3匹目が亡くなってしまい、悲しみでろくに頭が回りませんでしたが、落ち着いていくにつれ、
私はろくに構えず、手入れできず、飼い主として出来ることを疎かにしてしまったことをこの飼い犬は恨んでいるのではないかと思いました。

思い返せば返すほど後悔ばかりでした。死ぬ間際、体調が悪いのに次の日はバイトで休めなかったけれど、もしかしたらこの体調の悪さは予兆だったのかもしれない。休んでいれば、寄り添えたかもしれない。

大切なのにずっとそこにいてくれるだろう思っていた私の甘えが、殺してしまったのではないでしょうか。この飼い犬の未来を奪ったのではないでしょうか。

お金の工面をしなくてはならない時、親戚が問題を起こしお金を貸したりなどがあり、あまり手入れできなかった。とても綺麗とは言えない状態で死んでしまった飼い犬の姿を思うと、申し訳なさと悲しみと、自分への愚かさに潰れてしまいそうです。

ここまでの事をしてしまいました。父はいますが、訳あって別居しているし、一時的にですが私達家族の前から消えた人ですので、きっと私が呼んでも来てくれない。

家族みんなで、見送れない。
お金も少ないから墓もたてれない。

恨まれても仕方が無いくらいのことをしてしまいました。私は死んだらきっと裁かれるのだろうかと思いました。裁かれるいつかのことを思うと仕方が無いとは思いながらも恐ろしいし、もう飼い犬とやり直せないのだと思うとどうすればいいか分かりません。

甘えたことを言っている、恥を晒しているのは重々承知で質問させてください。
私は、恨まれいるでしょうか。許されるのでしょうか。いつか飼い犬とやり直せる何かがくるのでしょうか。どう生きていけばいいのでしょうか。教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間も犬に恩返しをしなければいけないと思います。

そう思えてしまうのはあなたがワンちゃんに対して、もっとこうしてあげたかったなぁという気持ちがあるからなのでしょうね。
もう声が届かない存在にしてしまっていませんか。
うちで飼っていた犬が死んだとき、首輪が外れていましてね。
ああ、「うちの犬」じゃなかったんだ、と改めて思いました。
人間に飼われると「誰かの家で飼っている犬」にされてしまいますが、犬には犬の尊厳があるんだよ。あなたが犬の声を出そうと思っても出せん。尻尾を振ってみようと思っても、ない。
速く走ろうと思っても勝てない。
臭いで探し物をしようと思っても真似できない。
犬は人間と優劣が付けられない。
だからとって、この世界で放し飼いにされていたら保健所に連れていかれちまう。
飼ってくれたことで、生きてこれた。一緒に過ごすことが出来た。安心して恐怖無しに生活することが出来たワン。🐕
だから、それぞれがお互い尊厳がある。
それぞれ、できることとできないこともある。
ずっと、側にいて上げたくても人間のあなたは学校に行かなきゃいけないからやってあげるべきこともしてあげられなかった。
恩返しをしてあげてください。
あなたが「もの」を持たないことが恩返しです。
ここでいうものを持たないこととは、仏教的には「自分のもの」を持たないこと。
あなたは自分ルールをつくって、自分を縛って苦しめている。それが自分のルールです。
うちで飼っていた犬も「ウチの」「自分の」ではありません。
私がここで説いている法も「わたしの」ではありません。
誰もが救われる内容を私なりに噛み砕いて説いています。
自分のものを持たないことは良いことです。
自分の家にずっとくくりつけていたら犬だって苦しいでしょう。
あなた自身を自分の思いでしばりつけないことです。
犬の最後の恩返しでそれを教えてくれているのだと思いましょう。
首輪もひもも絞めつけ過ぎては苦しい。だけど、無かったら人間も犬も誰かを傷つける可能性がある。人を傷つけても自分も傷つけてもいけない。
一緒に過ごしたことを思い出して、あなたの精神を導く存在、仏様として敬い、あなたの精神、人間性、やさしさ、おもいやりが向上していく事ことがそのワンちゃんへの最高の供養となりましょう。供養というのはお経を読むことではありません。供養する本人の人間性が向上することをするのが供養なのです。

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おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お早い回答ありがとうございました。
自分ではとても思いもできなかった、及ばなかった回答でした。
お互いに尊厳がある。確かに私は、わんこから精神上の苦痛を和らげてくれたり、そばにいてくれたり、あげてばかりではありませんでした。私も貰っていたんだなと改めて思うことが出来ました。
彼女のために向けられなかったけれどその分励むことが出来た学業を頑張り、叶えたい。叶えられなくても近づくことで恩返しをしたいと思います。

重苦しい、煮えた感情で想うのではなく、今までの感謝を想いたいと感じました。
本当に、ありがとうございました。

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