hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

何て答えたら、、、

回答数回答 4
有り難し有り難し 39

こんにちは。

私は、接客業をしています。
お客様は高齢の方が多いのですが、よく、足が悪いのがなかなか治らない。どうしたものか。など、言われますが、何てお答えしたら良いかうまく言葉をかけられません。
どうしたら、気持ちをやわらげられるか
軽はずみではないか、、考えますが見つかりません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

答えを求めているわけではないでしょう

とてもお優しいかたですね。
お話は、聞いて欲しくてしているだけだと思います。
あなたに痛みを無くして欲しいとか、いいアドバイスをもらいたいとかそういうことで、お話されているわけではないのです。

そうですか、大変ですね。お大事にしてくださいと、そのお気持ちを伝えるだけで、十分ですよ。
きっとそのお年寄りは救われていると思いますよ。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

答えるのではなく、応えていく

まるりんさん

自分の抱えたどうすることも出来ない問題を
誰かに聞いてもらいたいのではないかと思います。

答えではなく、応えてもらうことを
求めているのではないでしょうか。

こういう言葉を伝えたら
気持ちがやわらぐという方向で考えると
言葉が出てこなくなってしまうかもしれません。

頑張りましょう
大丈夫ですよ
仕方ないですよ
歳とるとみんなそうですよ等

相手に何かを伝えるのではなく

相手の感情的な言葉を
聞いて
同意して
問いかけていく

そうなんですか
今どのように
お感じになっているのですか

辛いと言ったら
辛いんですね

苦しいと言ったら
苦しいんですね

ただこれも
こういえば大丈夫ということにしてしまえば
同じことになってしまいます。

相手は答えを求めているのではなく
応えてほしいのでは
感情を受け止めてほしいのではと
頭の片隅に入れてみて下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

お寺や神社でお守りを買ってきてあげてください

相手の苦しむ気持ちに応えてあげたいというのは、すばらしい精神ですね。
その人が求めているものは「ことば」や「こたえ」ばかりではないかもしれません。
たとえば、このサイトにも純粋に仏教、仏道に関する問いを求めてこられる方もおられますが、そういう方にはこちらもスッキリ答えられるものです。ですが、中には単に寂しさを分かってほしい、同調してほしい、励ましてほしいだけの方、この場で質問という形で言ってスッキリの方もおられます。
本当に自分に寄り添ってくれて、真摯に向き合ってくれているかどうかが相手の苦しみを取り除くための大きなありかたかもしれません。
たとえ治らない難病であっても「この人はわたしを受け止めてくれている、安心して過ごすことができる」そういう寄り添いの気持や同調する心、それによって生ぜられる行為こそが慈悲の一面です。そのまま見届けてあえることも慈悲の一面。いい助言をするばかりではなく、手を添えて一緒に行動してあげることも慈悲。
決して治るかどうかは分からないとしても、その方が求めている気持ちに寄り添ってあげてください。私には、その気持ちが足りないので、こういった言葉しか差し上げられませんが。
その方が求めているものを見極めることが大切かと思います。
A・その人がこれをする事で治ることができる情報を提供する情報アドバイザー派。
B・その人の寂しさを理解して同調してあげるシンパシー派。
C・その人と共に行動してあげる行動ボランティア派。
D・その人自身の精神的成長の為にあえて見守るという親派。
日本の伝統の宮大工さんの世界では敢えてあれこれ教えないと言います。
結局、本人が自分をやっているうちは教えても聞く耳が無いのです。修行道場も尼僧堂も参禅会も、多くは皆教わりには来ない。みな「自分をやりに来る」のです。
本当に教えてもらいたいと思うまで、そっとしておくのだそうです。
私財をなげうってまででもその方の力になりたいと思ったらまず、お守りを買ってきてあげてください。心を開いて本当に聞いてきたら、本当に寄り添うように聞いてあげて、励ましになる希望的な情報をお伝えしてあげてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

付き合ってくれて有り難うだね。

私たちの職業も高齢者の方とよくお話をします。

参考になるかどうかは解りませんが、私の場合、よくこんな答え方をします。

痛いんだよねぇ・・
たくさん使ってきたからね。
長い間一生懸命に働いてきた証拠だよね。
でも機械みたいに油を差すワケにはいかないからねぇ。
油も差さずによく付き合ってくれてるよね。
機械ならせいぜい2~30年、80年ももってはくれないもんね。
たくさん働いてきたから、そろそろ足が音を上げてるのかもしれないね。
親にもらった身体を自分の自由に使ってるのに、よく今まで無理を聞いてくれてるよね。
ちゃんと足にお礼を言ってる?
せっかく付き合ってくれてるのに「痛い痛い」って文句ばかり言ってたらかわいそうだよ。
今までたくさん無理を聞いてくれたんだから、お風呂に入った時にでも、しっかり擦ってあげなきゃね。
「今日も一日ありがとう。付き合ってくれてありがとう。」って。
そしたらきっと、もう少し音を上げずに付き合ってくれるかもしれないよ。

・・・って。

{{count}}
有り難し
おきもち

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ