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閉塞感と焦燥感

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

こんにちは。領といいます。

私は小さいときから虐待を受けて育ちました。
それまで誰にも気付かれることなく、そして自分でも虐待だと思わないまま18まで過ごしました。

ある時から胸が急に酷く痛み、息も出来なくなることが続くようになり、だんだんと体調が悪くなっていきました。
自分ではないもう一人の誰かが心の中に居るように思えてきたのもこの頃からです。

そして今年4月に就職しましたが仕事場でイジメがあり、ついに日の光が浴びられなくなりました。
そのあと大量服薬をして、かつぎ込まれた病院で受けた診断は統合失調症と解離性同一性障害とパニック障害でした。

いまは退院して仕事もボランティアという形でしていますが、どうしても息が詰まるような、生きにくい感覚に襲われます。
でも誰かに相談などできないので、気持ちがまた死に傾いてしまいます。

どうすれば良いのでしょうか。
死が怖いという訳ではないのですが、死ぬことを考えると酷く息が詰まり体を動かす事が出来なくなります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「今」しか存在していな事実

過去の嫌なことトラウマのようなことがあると、そうしてもそれに引きずられ、
現実が台無しになります。

そうした過去に引きずられ記憶に引きずられる生活、から逃れるチャンスです。

そのために「今」という時間しか瞬間しか存在していないことに気付いてください。これは現実です。
過去は存在していません。でも気になる。思い出すもん。といっても存在していません。そうしている間にも過去になっています。過去に会った嫌な出来事や、他人の評価など何にも付け加えられていない、今があるだけなのです。

そうした事実に気付くことが、焦燥感や閉塞感から脱することになるのでしょう。
今目の前になるものを只見てください。何にも付け加えられてないでしょう。トラウマなんてないでしょう。そうして物事を見ていくようにしてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

三代、四代前から続く負の連鎖

こんにちまでよく耐えてきて下さいました、ありがとうございました。
その虐待は、おそらくあなたの親御さんも、その先代さんから受けてきたのでしょう。
あなたの使命は、あなたの代でその負の連鎖を断ち切る事。
親には憐れみの目を持ってあげてください。
自分がやっている事が何であるか自分でも分かっていないのです。
上手に少しづつ、距離を離して行ってください。
親御さんもあなたに依存している部分もこれかたどんどん出てくると思います。
ですが、自分の命を優先してください。
出家という言葉は、そういう家族、家庭、家庭独自の独善的な縛られから、縁を断ち切って、冷静に別存在の視点から物事を眺めることです。
頭を丸めなくてもよろしい。あなたは今日、いま、ここで、心の自由を得てください。
親といっても、別存在、別人格、別人生、別行動、別々の生命体なのです。
心の闇から解脱するためには、第一次的生活を重んじてください。
死の事が思われても、深追いしてセカンド、二次的な思いをしない事。
人から何かを言われても二次的な思いを起こさない。
セカンドを立ち上げない内に他の事を行動する。
思いに生きることは、現実ではないから、行動がストップするのです。
思いに使われないためにも事実を生きてください。
Facebookのtokyo禅を検索してメッセージを送ってください。
そこに負の思いの世界の虜にならないためのヒントがあるかもしれません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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