遺骨収集
2012年11月に弟が山で遭難しました。
雪解けを待って必死に捜索しましたが、崖から落ちて身体がバラバラに成って脚だけしか見付からず、警察でDNA鑑定を出して貰い、遭難後1年が経ったので裁判所で危難証明を出してもらい去年やっと葬儀が出来ました。
しかし、弟の頭や背骨、肋骨等の遺骨は険しい崖の途中に有るものと思われます。
私の家族や弟の家族からはこれ以上の遺骨収集は危険なために止める様に言われています。しかし、弟の遺骨が判っていながらみすみす寒い中で埋もれて居るのは我慢出来ず悶々としています。
この様な場合は如何考えれば良いのかお坊さんに教えて戴けたらと思います。
崖を捜索するのは、落石の危険が有りと警察に停められている為に捜索隊にお金を出して遺骨収集して貰うのも悩んでいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
遺骨は遺品の一つにすぎない
遺骨は、遺品の一つですが、弟さんそのものではありません。
ですから、収拾しなくてもかまいません。
弟さんはもうこの世にいないわけで、遺骨には寒いとか寂しいとかを感じる心はないのです。
お釈迦様のような、たくさんの人々から尊敬された聖者の遺骨は、仏教では宝物扱いになりますが、
遺骨そのものが大事なのではなく、遺骨を通してお釈迦様やお釈迦様の教えに想いを馳せることが重要なのです。
お釈迦様の遺骨を納めた仏塔(ストゥーパ)を拝むと心が清くなると言われますが、
それも、仏教に想いを馳せたり仏様を見習って人格が成長することを言っているのであって、遺骨自体に不思議な力があるとかいう話ではありません。
そのインドのストゥーパに由来するのが、日本で、戒名などを木に書いて立てる卒塔婆です。
遺骨がなくても、弟さんの卒塔婆や位牌、墓標を拝んだりして、弟さんに想いを馳せることができれば、遺骨があるのと同じなので、それでよいのです。
遠くから手を合わせる
峰如水さん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。
峰如水さんの弟さんが山で遭難されたとのこと。寂しくなられましたね。
弟さんは、山が好きだったのですね。雪山にあえて登山をされたことを考えると、かなりの技術と経験があったのではないかと拝察いたします。
弟さんは、ご自身が愛した山で亡くなられました。何も見つからなければ兄の峰如水さんが心配するであろうと思い、足だけでも見つけることができたのではないでしょうか。弟さんは、好きな山で亡くなり本望だったのかもしれません。
足以外のご遺体を回収することは、弟さんはどう思うでしょうか。峰如水さんや捜索隊を危険にさらしてまで回収を願っているのでしょうか。
私の推測に過ぎませんが、弟さんは山を愛する仲間を危険にさらして欲しいとは考えないのではないのではないしょうか。
遠くからその方向に向かい手を合わせることを、遙拝(ようはい)といいます。折に触れて遙拝し、峰如水さんの弟さんの成仏を願ってほしいものです。