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幼児期より悪いことが続くのは、自分で原因を作っているから?

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有り難し有り難し 27

お忙しいところ恐縮でございます。

先日、以下の質問をさせていただき、新たな疑問が生じたため、また質問をさせて頂くことに致しました。
→ 「他人を苦しめる人が得をするのは何故でしょうか?」
http://hasunoha.jp/questions/17603

先の質問にて、仏教における因果についてご教示いただきました。

私の身に今まで起きてきたことは、それほど多くの方が経験する訳では無いことばかりです。
(主観的にも客観的にも)決して良いとは言えないことが続いております。

立つことも話すことも出来ない頃から、ずっとです。
(プロフィールに一部記載しておりますが、記載していないことも多々ございます。 )

これは、私自身が生まれたときから悪い原因を作り続けたからなのでしょうか?
正直なところ、自分では、こんなに堕ち続けるほどに何が悪いことをした覚えはございません。

お忙しい中恐れ入りますが、ご回答を頂けますと幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「なぜ?」ではなく「どう?」していくか―事実に立つ―

仏教では因果を説きます。全ての物事には原因があります。だから善因善果、悪因悪果ともなります。しかしここでいう善悪とは私たちの思う善悪ではなく、仏教でいう善悪です。

すなわち、覚りに近づくのが善、遠ざかるのが悪です。覚りに近づく行為により覚りに近づく結果が得られ、覚りから遠ざかる行為により覚りから遠ざかる結果が得られる

という至極当然の教えです。ですから例えば

(善)ゴミ拾いをする→(善)宝くじが当たる
(悪)盗みを行う→(悪)バチが当たって病気になる

というように私たちが望むような、「日ごろの行いが云々…」とか「あの人は大悪党だから罰が当たってほしい」とかそういうことではないのです。

しかしそれでも物事には原因があります。世の中というのは原因が結果となり、又その結果が新たな原因となり…と網の目の様につながり影響を及ぼし合って成り立っています。ですから私がそれらの影響を受けずに単独で「こうすればこうなる」「こうしてないからこうならない」といられるわけでもなく、他からも当然影響をうけることになります。

ですから物事には原因があるがその全てが人知でわかるわけではない。だから昔から人々はその事実に頭を下げて

私に良い事があってもそれは私の力だけでなく色んなご縁に支えていただいた「おかげ様」
相手から悪い事をされてケンカをしても私にも悪い所があってのだろうと「お互い様」

と手を合わせて来たのでしょう。

私の今の状態の全ての原因が私にあるわけではなく、様々な原因が折り重なって今の私があるのです。理不尽ないじめや生まれつきの障害がその人自身のせいなどという教えではありません。

そして大事なことは原因が分かったところで今の事実が変わるわけではないということ。

「なぜ?」だけでは人は救われないのです。人は意味を求める生き物ですが、物事は最初から意味があってそうなっているわけではなく、原因があってそうなったという事実に人間が意味を感じています。その事実に対し「どう」対処していくか、「どう」受け取っていくかというところに救いがあるのでしょう。

物事には原因があるがそれが全てわかるわけではない。しかしそれはまぎれもなく私がいただいたご縁でこれ以外に私はいないのだ!とその責任を引き受ける主体性に「空しくない人生」という救いがあると私は感じています。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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業の因縁

とと様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

業の因縁(原因と条件)による結果につきましては、「三時業」として、今の生きているうちに出るものもあれば、次の輪廻において出るもの、また次の次の輪廻において出るものもございますし、中には、更に幾つもの輪廻の後に出るという場合もございます。

では、一体、いつの因縁が今の結果となっているのかと申しますと・・

実は、「これ」と特定して言えるものでないのですよね・・

難しいことですが、仏教的には、全ては「空」にして「縁起」なるものと申しまして・・縁起なるものは、実体として成り立っているものではないため、「これ」だと決定できるものは見いだせないのであります・・

例えば、過去の自分のどの自分が今の自分ですか、あるなら、今の自分において過去の自分を出して示して下さいと言うようなものです・・もちろん、過去の自分は無いわけではないのですが(因縁によりて連続して続いているのは確かですから)、実体としてはあり得ていないということになります。

また、「異熟」と申しまして、輪廻において、業の結果に影響を及ぼす、善、悪、無記(善と悪のいずれでもない)の因縁(原因と条件)が、色々と複雑に混じり合う中で、やがて(熟して)結果が出てくるものにもなります。

もちろん、「因縁無くして結果無し」ですから、結果には必ず因縁はあります。ありますが、その因縁は「これ」だと言うことは、実はできないのであります・・また、更に結果も、その先の結果へと向けた因となり縁ともなったりして、次へと続いていくことになります。

とにかく、これからの因縁において、善き結果(悟り)へと向かうための方法が示されているのが仏教であり、その中には、過去の悪い因縁に対してどうすべきかについても、もちろん示されてございます。

何より、これからです。過去を振り向いても、もはや仕方のないこともございます。これからの自分が、これからの自分の因縁次第にて、これから先を善くもして悪くもしていくのです。そして、これからの自分が、これまでの自分(への見方、価値)を変えることだって、これからの自分の因縁次第です。

是非、これからの善き因縁を調えていくために、仏教を本格的に学び修する機縁として頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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