どうしてそんなに生命を軽く扱うんですか?
生来の体質ゆえに普通の人と同じような人生を送ってこなかった私ですが、十代の頃から長いあいだ「希死念慮」という死神に貼り付かれてきました。死ぬほうが楽なことは一杯ある。いままでそれに負けなかったのはひたすらに自分自身に負けたくない気持ちゆえにです。子供の頃からずっと「死」について考えてきました。
私は特定の信仰を持ちませんが、なんとなく「生かされている」という気がしています。
「お天道様が見ている」というのに近いかな? この「お天道さま」は誰も人が見ていなくても非道なことをすると罰を与えます。「天罰」というやつですね。
大事故で九死に一生を得て助かる人もいますし、大災害で亡くなる方もあれば、奇跡的に助かる方もおられます。特に東日本大震災のような災害で、本当にわずかな差で生死を分けた人の話を聞いたりすると、本当に不思議な気持ちになります。
なにが運命を分けたのかわかりませんが、私はこう考えてしまいます。「助かった人は生き延びてまだやるべきことがあったんだ」と。
不幸にして亡くなられて、遺族に大きな悲しみを残された無念の死を迎えた人も、その大きな犠牲によって、多くの人に訴えるものがあって、改善のきっかけになったこともあるし、遺族がその人の分も力強く生きていこうとする力の源になったのかもしれないなあ…とも…。
すべて私が勝手に思っているだけのことですが、だからこの世に「無駄な生命」はひとつもないのです。天命だか運命だか、寿命がある人はその時まで、生き延びる運命にあるかもしれないし、短く定められた寿命の人は普通なら大丈夫、くらいのわずかなことで命を落とされることもあります。
…だから、私も、生きているということは自分なりの役目があるから生きているんだと思っています。それがちゃんと出来てからじゃないと死ねないかもしれません。
黒柳徹子さんのエピソード。ユニセフの仕事で「寿命があるなら大丈夫だから」と地雷原にずんずん入っていかれるという話。単に無謀とは違って黒柳さんの中にも「生かされて生きている」感覚が強かったんじゃないでしょうか。
生きているうちはこの世での役目があって、それが完了するのが死ぬ時。自分勝手に途中で投げ出したら、それまでの苦労も無駄になりますよね。
相談ではなくてすみません。一度しかない人生、大切にしていただきたい切なる願いです。
もとより双極性障害が原因の希死念慮には悩まされているのですが、懸命に両親の介護関係で動いている時もふとした虚無感に悩まされています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私の役目って何なんでしょうね…。
生きているうちは役目がある。それが終われば死んでいく…おっしゃること、何となくは分かりますが、本当にそうなんでしょうかね…。
例えば重度の障害を背負って生まれてきた方があって、一般的にいう「勉強」「労働」は出来なかったとします。そしてその命終わっていかれたとき、ならばこの方の役目は「障害を持って生まれてきても、とにかく生きることを、障害を持たない方に伝えること」だったのでしょうか。
『私は、そんなことを伝えるために生まれてきたんじゃない』とおっしゃることはないのでしょうか。
…人は役目のために生きるのではないのだと思います。
縁あってこの世に生を受け、この世の縁が尽きれば命終えていく…ただ、それだけではないでしょうか。
そして、「そんな人生はイヤだ」とか「死にたくない。ずっと生きていたい」などいろいろな思い(欲望)を持ち、その為に自ら苦しみ続ける我をなんとかしてやりたいというお慈悲のおはたらきを「仏」と申し上げるのだと頂戴しています。
あなたはいろいろとお辛い思いをされながら、今まで生きてこられました…本当に尊いことであり、また不思議なことですよね…。
お互い いつまでこの命を紡げるのか、それはわかりませんが、縁ある限り精一杯生きていきましょう。役目の有る無しなど私達にはきっと分からないことだし、分からなくて良いことなのかも知れません。今日を、今を生かされていることに感謝しながら、自身に出来ることを共々に為して参りましょう…。
意味・価値・役目からの解放
Haru様の生命観をお聞かせいただき有難うございます。
「死にたい」思いを抱える方が大変多い事に胸を痛めていたのですね。どうも波があるようで最近はそうした方々が多い時期だったようにも感じます。同じ辛さを抱えながらも懸命に生きているとの力強いメッセージが皆様にも伝わることを私も願います。
さて、おっしゃるとおり人間はやはり「意味」を求めます。ここhasunohaで希死念慮を持つ方の多く…いやほとんどが、
私の生きる「意味」は?「価値」は?「役目」は?
とそれを求めていらっしゃいます。その答えのない問いに何かを見出すことは何よりの希望であり、生きる活力ともなりましょう。
しかし同時に、それが見失われること、あるいは奪われることは何よりの絶望をももたらします。
意味重視は諸刃の剣のように感じます。
仏教の考えは意味を重要視するものではないと私は思います。もちろん「意味がない」わけではなく「意味が全てでない」「意味ベースでない」という感じです。
意味というのは固定的・実体的なものではないにもかかわらず、それを実体視、そして絶対視するところに苦の原因があるのではないでしょうか。
もともと「(実体としては)ないもの」を求める、あるいは失うが故に多くの方が苦しんでいる様に感じます。
なにか自分の生に大いなる意味があって欲しいと願うのは人情でありましょう。しかし仏教的な視点で見れば小林師のおっしゃる通り、数えきれない原因と結果の連鎖の網の目の中で、たまたまご縁が整って私が誕生し生かされている、ということになりましょう。
つまり、意味があって生まれたのでなく、生まれたところに意味があるのです。意味は二次副産物のようなもので、あくまでも私たちが感ずるもの、感得するもの、紡ぎ出すものであり、自由なものではないでしょうか。
なにか神のような絶対者から勝手に与えられた「役目」ではなく、ご縁により生かされるいのちの中でこれが私の役目だとそれぞれが自由に見出していくものでありましょう。
私たちは意味を絶対視・実体視するがゆえにそこに執着し、もともとないものを求め苦しんでいる。
そこから自由になって、今あるいのちという「事実」からそれぞれが意味を味わって生きて参りましょうというのが仏教的生命観かもしれません。
そう考えると誰のどんな人生からも意味が失われることはないのです。
質問者からのお礼
ご回答どうもありがとうございます。
いつもここを読ませていただいて、死にたいと訴えておられる方々の多さにずっと心を痛めてきました。だからなんとかならないかなあ、と思っていました。
私自身が遠い未来と近い未来に目的を設定して、それでなんとかいままで生きてこられた事実があります。私にはそれが切実に必要だったのでそうしてきましたが、すべての人に必ずしも必要ではないのかもしれません。仏教では確かもともと意味を求めないのだとなんとなく知っております。
それでも人によっては目標を設定することで、希望を抱ける方もあると思います。生死は人知の及ばないものかもしれませんが、あまりにも多くの方の自死を求める声を聞くと本当に辛いです。
縁もゆかりもない人間ですが、どこかでそういう辛さを抱く人が私だけでなく存在するのだということをお伝えしたいと思いました。
ありがとうございました。