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他人の悪口を言ってしまった

回答数回答 1
有り難し有り難し 143

今日、他人の悪口を言ってしまい後悔しています。
悪口は言ってはいけないと分かっているのですが、言ってしまい自己嫌悪です。
悪口を言うと因果応報で自分に返って来てしまうことも分かっているつもりなのですが…
悪口を言いたくなってしまった時の対処法を教えて下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どんなものにも良い面と悪い面がある。

目の前の机の上にティッシュをおいて次のように瞑想してください。
そして思いっきり悪口を言ってみましょう。
(お笑い芸人一人ツッコミ風)
「この薄っぺらのすぐに切れちまう紙がー、あー?ちゃっかり二枚重なってんじゃねーぞ。そういう所が薄っぺらいっつーんだよ。シュポシュポとかいって、くっついてくんじゃねーよ。あー?無くなった?空になったら机からティッシュだけに撤収(ティッシュ)してください?くだらネーシャレかましてんじゃねーよ」
('ω')さて、長いボケでしたが、良い面を見て褒めてみましょう。
「あー、このさわりごこち♡この透け透け感♡とても繊細でいらっしゃいますねー。いい仕事してますねー。よくここまで薄くできましたねー。この薄さがあの柔らかさを生んでるんですねー。いつもこぼれたところ、きれいにしてくれてありがとうございます。あの時は本当に助けていただいてありがとうございます。とても助かりました、鼻血。」

ものごとには悪い面と良い面があります。
人間は物事を相対的に観ることがあります。
良い所、悪い所のウチ、悪い所ばかりを探してしまう。
それは一面的なものの見方です。
一面的に物事を観ているという事は、物事の真実のすがたを知らずに、片面だけ、一面だけを観ている姿です。
どんなにイカツい態度の悪い嫌な人間でも、それはその時のたまたま一面的な姿です。
あなただって悪口を24時間ずっと言い続けているでしょうか。
沢山良い面だってあるはずです。
人を悪しざまに言う時というのは、実は自分を高めたいのです。
今起こっている事に受け入れができなくて、反発的になっているのです。
悪口を言っている、と捉えるのではなく、あなたが悲しかったのでしょう。
辛かったのでしょう。
とても嫌な気持ちがあったから、つい苦しくて嫌な気持ちを何とか伝えたくて、そういう言葉を言ってしまっただけなのでしょう?
私は、あなたの悪い面ばかりではなく、そっちの面も観ています。
あなたも、今度はその相手の他の面を観てあげてください。
今後は、悪口を言いそうな時は、今の面は一枚目のティッシュだと思って、そこは引っこ抜いて、スルーして別の面も見て(耳を傾けて・心を傾けて)みましょう。
その為にはティッシュのように相手の毒をいったん吸収して拭きとってあげて、繊細な心で、やんわり包んであげましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

御返事ありがとうございます。
そうですね、自分の狭さが悪口に繋がってしまったんですね。
相手にはいろんな面があると分かっているつもりですが、まだまだ精進が足りませんでした。
自分が素直に思ったことを喋るのも大事ですが、悪口を言いかけた時はもう一度冷静になってみようと思います。

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