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気持ちの整理

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有り難し有り難し 11

 私は幼少期母に「おまえは橋の下から拾ってきた」と日常的に繰り返し言われてきました。                弟はそんなことを言われませんでした。真偽のほどは定かでありませんが、今も私の心の中で腑に落ちない出来事の一つです。
 弟と比べられたり、私だけ親戚の前で辱しめを受けたのも、どうしてもこのことと
関連付けて考えてしまいました。
 私の幼少期のとても大きな出来事であり、今日の悩みの根の様な話です。
 もちろん、イマサラ聞く勇気もないですし、冗談だよと言われそうですが・・
 ご相談から見えてきた結論だと、話は冗談で私の思い込みとなりそうですが、気持ちの持っていきようをどうしたら良いか相談させてください。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

答えを知る必要があるのでしょうか

その答えをわざわざ聞いて知ることで、今のあなたが変わるのでしょうか。基本的には聞く必要はないと思います。しかし、気になって先に進めないほどであれば、聞いてみるのが一番でしょ。

真実は今の自分のありようであることを、しっかりと理解し、ぶれない心を持つことができれば、勇気を出して聞いてもいいのではないでしょうか。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

迷いを、迷い化させない方がいい。

あなたは問題を振り返る癖があります。
問題視しなくてよいのです。
問題化させなくていいのです。
反芻しなくていいのです。
Replayしなくていいのです。
いちいちかこの事をふりかえって、あれこれ善し悪しのジャッジをしている自分があるでしょう。
そして、それがあなたを一番気づ付けている事にそろそろ目覚めてください。
そうでないとあなたはずっと負の沼にハマり続けることになりますよ。(^<^)
それを考えて、元気になれないような事はいちいち考えなくてもいいのです。
親としては、冗談半分であったり、あなたが言う事を聞かない時に言う事を着返せようと思って言ったのかもしれませんし、お母さん自身が病んでいたとも言えるのかもしれません。
ただ単に、お母さん、小さい頃から橋の下で拾われてたと言われていたけど、お母さんにとってはどういうつもりだったのか分からないけど、僕はそれでとても傷ついたよ、という事を伝えて、真意を訪ねて観ればよいでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

円通寺邦元師アドバイスありがとうございます。自分の中でずっと引っ掛かっていた事案でしたので。

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