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癌になりました

回答数回答 1
有り難し有り難し 37

はじめまして。
よろしくお願いします。

私はもうすぐ30才になります。
独身です。
昨年、婚活を始めた矢先に
子宮にステージ3の癌が見つかりました。

現在、治療はひと段落したものの
心の病をどう治したらよいかがわかりません。

周りは結婚、出産ラッシュ。
幸せそうに見えます。
素直に心から喜ぶことができません。
親友から、”悪阻が酷い”と言われても
その悪阻でさえ羨ましく思えてしまう…

私だって幸せになるはずだった。
20代の10年間は本当に辛いことばかりだったから
やっとこれからだって思ってたのに…。

神様はどうして私を、子供が産めない体にしたのでしょう。
どうしてこんなにも試練を与えるのでしょう。

何を見ても何をしても感動できなかったり
やる気もなく、ぼーっとする日々。( 仕事には行っています )

幸せがどんどん遠ざかっていく。
このままずっと孤独なんじゃないかという不安。
がんが再発するんじゃないかという恐怖。
さみしさ…

心も体も病んでいる私に、何かアドバイスをください。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

がんの先輩たちに学ぶ、真似ぶ生き方。

大変お辛いことですね。
悲しいですね。
どうか、少しずつ心を前に向けていってください。
進むべき方向を先に明確にされることが第一です。
ガンになられて心病んで生き続ける生き方か、
ガンになられても心を前に向けて生きるか。
子宮がんになられても強くたくましく生きておられる方がおられます。
芸能人の方でも、尼僧さんでもそういう活動をされておられる方がおられます。
そういう方々にまねび、心の進むべき方向を見失わないようになさってください。
「苦しみ」に焦点を当ててお話を致しますと、苦しみとは体の痛みや病とは別物で、心が苦しい、ということです。心が苦しい、とは、今心身が体感していることとは別の状況を願うことで、今の現実では成し得ないことが脳裏に浮かんで、なんとかしてその様になりたいと願うものの、その様にならない、かなしさ、つらさ、、、。それが苦しみです。
私も人生の中で変えられないものがあるという事を感じました。
100パーセントまでには至らないと思います。
ですが、そこに向けて近しい形を求めていくのです。
「思い切る」という言葉がありますが、私はこの言葉が苦しみにあった時、自分を力強く進ませました。断つべきを断つ力になるのです。
病にあっても心が病で居続けることは、身のみではなく、心まで苦しませることになり、ダブルの苦しみです。
アウトプットする事、人の助けになる行為はできるのです。
仏教では利行、利他行を説きます。
これは、世の為、人のためにこれをするべきであるというボランティアの行ではありません。
たとえ誰であっても、幸せに生きるためには当然にこれを修すべきであるという意味なのです。人を助けることで自分も救われるのです。
病のみであっても、老いの身であっても、いずれ私どもも死ぬ身であっても、その中で、限られた生の中で最高に生きるには、人を助ける生き方なのです。
病の中にあってどうして?と思われるかもしれませんが、是非、同じ苦しみを抱えておられる方々のためにも、あえてあなたが、人を助ける道を歩んでみてください。
心の中でも奇跡が起こります。苦しみをも癒す力が生じます。
人を助ける、癒す力になります。それの力があなたを包み、がんの苦しみをさらに軽減してくれるのです。
いつでもお便りをおよせください。
まずは、心静かに、呼吸にみをまかせてそのまま坐して下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元さん

どうもありがとうございます。
お返事が頂けて、とても嬉しかったです。

気づいたことがあります。
私は、自分のことしか考えていませんでした。だから辛かったのだと。

「私はこんなに辛い。誰か助けて。誰かわかって。」
と、人に求めてばかりでした。

他利行。自分以外の、誰かのために。誰かの役に立つ。助ける。癒す。
そうか、私に必要なことは、誰かのために生きることだったんだ。
と、気づくことができました。

大それたことはできないかもしれないけれど、まずは身近な人や、小さな行いから、意識していきたいと思います。

なんだか、心が楽になった気がします。

ありがとうございました。

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