hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

頭が勝手にあれこれ考えてしまう

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

昨年父がなくなってから苦しい思いから抜けられず、ハスノハに出会いました。

折に触れ、いろいろな方の問答を読ませて頂いてきました。

過去のことや未来のことに思い煩うことなく、今目の前のことを大切にとわかってはいるのですが、頭が勝手にぐるぐる考えてしまいます。

勝手に回ってろ!と気に止めないように、心に刺さらないように、自分の頭に言うようにしてるのですが、なかなか止まらず、取り越し苦労になったりします。

それぐらい、父が亡くなったことがショックで、継母の存在をどうしたら良いかわからず、父ときちんと向き合えていなかった後悔が大きかったのだと思います。

目の前のことに対する集中力が足りないと思う毎日、どうしたら頭のぐるぐるは治るでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気になっていることを解決しようとしないという解決法

過剰な思考の解決法は次の2つ。
①気になっている事に向き合って直接解決する
②思い自体、思考自体の【無駄さ・愚かさ】を自覚して止める。
つまり❝解決しようとしない❞ことが解決になる。
思考上での解決ゴールを捨てる。捨てる。捨ててこそ。
「事実は解決済み」という理を悟る。
いくら「考えても」紙1枚、飴玉ひとつ持ち上げることが出来ない。
行動をして直接解決できる事であれば直接解決すればよいのです。
「お父さんが亡くなった。」これがあなたの頭の中でトラブルになっている。
どうして苦しいか。どうしたいのか。なにをするべきか。そこに向き合うのです。それを受け入れたくない気持ちや逃げたり不足があるという事でしょう。
それが、今から出来ないことであれば「これはもう変えることができない」とに気づいて、それ以上をその変えられないことを変えようとしない。
変えられないことを変えようとすれば矛盾が生じて苦しみになります。
それは車の空ぶかしのようなものです。
また、仏教の知識や話を見たり聞いたりすれば変われると思ってしまうのは誤りです。
行あるのみ。
自分の中でやっているエンドレス・ネガティブ思考を「させないようにさせる」行。
心がなさない・やすまるしかないのです。
「しずかになれ」とコップの中の水をマドラーでかき混ぜても鎮まらない。
ぐるぐる回る思考が観覧車の揺れであるならば、一台一台を止めても他の観覧車は動いています。それを運転している操業者を止めなければ観覧車はとまりません。
坐禅はしゃべる自分、動く自分、騒ぐ自分そのものを放棄する。
能動的な活動、アクティブな脳内の働きを放棄するのです。
「こころにてなにもなさない」をする。
「心にて何もなされない様に❝退歩❞する=止」のです。
「する」と言ってもアクションが大きければ心は波立つ。
だからそのマドラー、操業者を停止する。

メイクの講座の話を聞いただけで人はキレイになれるものでしょうか。
言われた通りのメイクを自分の顔に活用しなければそのメイクによる美は手に入りません。
心は本来メイクは不要ですが、すでに思考によってメイクされ続けてきた結果こそが今の塗りたくられメイクされた心、精神状態なのです。
それは人為なのです。
仏法という釈迦が悟ったすっぴん(無為)のセオリー、実践によって❝リメイク❞=自動洗顔される事が今、大事なことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様
アドバイスありがとうございました。
一日が経ち、なんか落ち着いています。
文章にして、心の内を外に出し、それに語りかけていただいたことでスッキリしたような気がします。
過ぎたどうにもならないことは、放っておくこと、心を静かに、無理にかき混ぜないこと。
真面目過ぎるのかなあ、私。心の活動、少しサボろう、と思います。

煩悩スッキリコラムまとめ