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お経について

回答数回答 1
有り難し有り難し 22

以前も何回か相談させていただいていますが、今回もよろしくお願いします。

母が亡くなってから、母の供養のためと思い、お経を唱えるようにしています。
何が書かれているのか意味も分からずに読んでいるのですが、これは意味のないことなのでしょうか?
今は少しでも何が書かれているのか理解して行いたいと、関係する書物を読みはじめたばかりですが、理解して行えるようになるまでには、まだまだ暫くかかりそうです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経は会得すべきもの 読むだけではなく 中身を味わいましょう

Q(´Д`)あのー、お経ってどんな事が書いてあるんでしょか。このアホの丹下めに教えてくんなまし。
A( ˘ω˘ )お経っちゅーのは、簡単に言ゃ、この世や自分のトリセツぢゃ。人間が誰でも悟れるチューことが書いてある。
Q(´Д`)アッシみてぇなヘイヘイ凡々のボンクラ凡下でも、悟れるっちゅうこってスカ?こいつはありがテェ。
A( ˘ω˘ )うむ、オメーみてーな下の下の凡クラ凡下でも梵蔵丹華くらいになれるのぢゃ。
Q(´Д`)で、何が書いてあるんで?
A( ˘ω˘ )千字じゃ言えねーよ。坐禅会来んかい。
Q(´-ω-`)そこを何とか。
A( ˘ω˘) 釈尊の悟りの中身がお経ぢゃよ。宗派ごとに色んな側面から同じ心を説いてあるんぢゃ。
👼諸行無常 オメーの身や心に起こることは、底の抜けた福袋みてーに何入れても残り物がないからいつでも救われているぞ、と説かれておる。蓮の花みてーに、どんなドロ沼な過去があっても泥に染まらず清らかな花を咲かせているぞっちゅーことぢゃ。オメーの心は今はもうさっきの事は何もなしに、今の事しかねぇ。だから、いつでも救われているぞ🌺と説いておるのぢゃ。

👿諸法無我 どんな物も人も、オメーの思い込みや好き嫌いを離れて、その実物がその実物の通りにオメーとはカンケーなしに独立して自由に生きているから、オメーも同じように何もんにも染まらず、何物にも属せず、年齢も性別も何賢人かも忘れて、観念的なコリクツを離れた自由自在な活動をいつでもしているから、オメーいつでも救われているぞ🌷と説かれておる。

💀一切皆苦 一切の存在はオメーがアレコレ思っても、オメーの好き嫌いや善し悪しが無く、人間の願いや願望とはまるで無関係のありようを常に全うしているのが本来の姿であって、オメーの思い方とはまるで別モンだから、オメーはいつでも救われちょるぞい、と説いておるのぢゃ。

✨涅槃寂静 一切の存在は人間の見解を離れた安らかかつ静寂、安穏なるありようで存在していて、元々がこちらがツッコミ入れる前から完全にぺーふぇくと、コケても、泣いても、それがそれで完全無ケツ。人間の想念の介入によるなされの無いことが真の静寂だから、元々がそういうまっさらな世界に生きてるから、いつでもどこでも24時間いつでも救われてんぞ?って説いてあるのぢゃ。
☛(゚Д。)あべし!👼
( ˘ω˘)グッ成仏。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
お礼が遅くなって申し訳ありません。
解りやすい回答をありがとうございました。
何度も読み返しています。ありがとうございます。
気になるのは、読むだけでは供養になっていないのでしょうか?
だとしたら、母が亡くなってから一年何ヵ月、申し訳ないことをしていたと…。
これから、もっと理解できるようにしていこうと思います。
ありがとうございました。

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