自動車教習所を辞めてしまいました
冬に東北地方へ合宿免許に参加していました。
結果は1週間ほど頑張りましたが、中間試験(道路に出られるかどうかの判断を教習所内にて判断する試験)の前日の最終練習の時、道を間違えて逆走してしまい、教官に叱られたのをきっかけに体調を崩して辞めてしまいました。
元々私は「出来なくて叱られる」ことに強い恐怖心を抱くタイプです。それでも両親や既に免許を取得している友人からの「最初は出来なくて叱られるもの」という言葉を信じて頑張っていました。
しかし毎日教官から出来ていないと叱られる度に萎縮してしまい、毎日両親に泣いて電話をかけ、そのうちプレッシャーから食事を満足に取れなくなり、日々疲弊していってしまいました。
なにより、教習中に教官からは「全然出来ていない、道路には出せない、期間を延長した方がいい」とお叱りを受けるのに、教習ノートには優の判子がつけられていることに耐えられませんでした。車は人を簡単に殺すことが出来るのに、どうして出来ていないと言いながら優の判子を押すのか。未だに理解できません。
この現代において車は必要不可欠な道具(私の出身は地方なので車が必須です)だとは理解していますが、教習所での経験を思い起こすともう一度頑張ってみようという気にどうしてもなれません。たかが教習所とはいえ、私にとっては本当に辛い一週間でした。今でも合宿先で積もっていた雪を思い出すだけで吐き気がします。
こんなふうに躊躇し、出来ることならこの先免許を取りたくない、可能な限り取らなくても済むようにしたいと考えている自分がいます。しかしこれはとても弱いことなのではないかと悩む自分もいます。
何か、アドバイスをいただけたら幸いです。
よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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御自身を追い込まないで下さいね…
うちの長男(東北でした…)、長女とも自動車学校での合宿で免許を取得しました。当たり前…ではないと思います。よく頑張ったと誉めてやりました。
私は僧侶でご葬儀を勤めます。
もう20年近く前のことですが、冬場の御通夜の際、少しトイレに行きたかったのですが まあ良いかと深く考えずに読経に出て、かなりの尿意(すみません)を催し、お勤めを5分程短めに切り上げ、早々に退堂して何とかトイレを間に合わせました…事実としてはそれだけのことです。
しかし、その時の「そうか、僧侶は読経(焼香)中は、何があっても退室出来ないんだ!」という強烈な思いが自身のトラウマとなってしまい、正直 時間の長くなりそうな大きなご葬儀の際はおむつをして入堂したこともあります。今でも御通夜・ご葬儀の際は衣体替えギリギリにトイレに行くようにしており、おかげでいつも準備がバタバタです…。
あなたにとって今、自動車教習所に通うことがトラウマになっておられることを心配致しております。
違う教習所、教官であっても、教習車に乗った途端、記憶がフラッシュバックして…ということはあるかも知れません。
私の経験からすれば、一に「日にち薬」です…ただ、年単位での話です。回復する、イヤな経験を忘れるにはずいぶんの時間が掛かると思います。
そして、もう一つは「自分はそういう人間なんだ」と認めることです。「葬儀の際に尿意を感じたらどうしよう」「教習所でコース間違えたらどうしよう。又免許取れなかったらどうしよう」と思い悩んでしまう人間なんだと認めることです。
こんな自分を自分で認めたくないけれど、でも事実であって、こんな私を仏様は心配して見ていて下さる、抱き取って下さる…と頂戴することです。
自動車免許が難しければ、二輪免許または他の免許・資格にチャレンジされては如何でしょうか?
一番、怖いのはまたすぐに自動車免許取得に挑戦して、失敗することですよね。
それは避けたい…ならば今すぐの免許取得はなされない方が良いように思います。
免許がないと本当に不便ですよね…でも、命に関わることはありません。
3輪幌付きの原付などで当座をしのいで、いつか自動車免許に再チャレンジなさっては如何でしょうか。
免許取得のご報告をお待ちしております…気長に、気長にですけど…ね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
お礼を書くのが遅くなってしまって申し訳ありません。
少し時間をおいて、心が楽になるのを待ってみようかと思います。
ありがとうございました。