自分の甘えが許せない
今月の初めに、十八歳の犬を看取りました。
外で飼っていましたが、十ヶ月前に転倒で怪我をしたので、私の部屋で世話をしていました。獣医師から怪我のショックで一週間もたないと言われましたが、散歩ができるまで回復してくれました。
このことがあって私は犬の最後に後悔しないように過ごそうと誓い、仕事と介護の両立を努めたつもりでした。
亡くなる5日程前から、食欲が落ちて嘔吐するようになったので病院で薬をもらったり、深夜に荒い呼吸をして、病院に電話をすることがありました。
心配になった私は、亡くなる前日に仕事を早退して家に帰ると犬はぐっすりと寝ていました。
それに安心して、病院は明日の休日に連れていこうと楽観的に考え、つい犬の側で寝てしまいました。
深夜、犬の様子は急変し、苦しそうに呼吸して、前日に食べたものを吐いたかと思うと、息を引き取りました。
私は私の弟が苦しんでいる間、ただ彼の体をさすることしかしませんでした。
犬種としての平均寿命をとうに越していた弟を、まだ死ぬ筈はないと思い込み、甘えていました。
取り返しのつかないことですが、早退した日に病院に連れて行けば吐く苦しみを味わっていなかった。もっと穏やかな最後を迎えられた、と考えてしまいます。
初七日が過ぎ、弟に手を合わせる日々は落ち着いていると思います。
ただ悲しみが収まると、次は自身への怒りが湧いてきます。
病院へ行くのを先延ばしにした判断は甘えと怠慢でした。自分を中心にした考です。許せないです。
自死したい気持ちはありません。弟の供養を最後までしたいです。自分の身体を傷つける気もありません。
ただ甘える自分を殺したいです。
その方法を教えて頂きたいのです。
過激な表現をして申し訳ありませんが、本心を書こうと思っての上です。ご容赦下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
愛犬は感謝しています
あなたは十分に看病し、最後まで愛情を持って看取りましたので愛犬は感謝してお浄土へ旅立ったと思います。食べられなくなっていったのは、体全体が生きる方向から、終わる方向へ変わっていったためだと思います。つまり自然死ではないでしょうか。
吐くという行為は、体が受け付けなくなったからで犬にとっては自然の反射行動です。気にされることではありません。自然死の場合は脳内麻薬ホルモンのおかげで苦しくないと言います。
悲しみのあと怒りが来るのは、死を受け入れるために必要な心の過程です。怒りを乗り越えれば心が落ち着き、楽しかった思い出に浸る時間が持てるようになります。
体を手でさすることを手当てと言います。あなたは最高の手当てをされました。自分を責めることは必要ありません。心から念仏し、愛犬に感謝申し上げましょう。