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私には…

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嘘をついて相手を怒らせてしまいます
過去の親からの暴力 援で指示に従わせた女が嘘をついてしまえば楽だよ って言われたこと
このことにより今になっても嘘をついてしまいます
どうしたら過去のこと忘れ嘘をつかず 相手のことを世に戻せますか… 相手の信用は無くなってしまったんですけどまた信用を取り戻ししたいです
お願いします…


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嘘がどういうものであるか考えてみましょう

まず 嘘 とはなにか。
本当は「そう」であることを逆さまに言うから「うそ」になるのです。(ホンマカイナ)
シャレはさておき、
人間は会話の中で、ちょっとしたことも嘘をつく、
「大丈夫?」「(つらいのに)大丈夫です。」
「手伝おうか?」「(あなたにはしてもらいたくないので)ありがとう、結構です。」
「蕎麦でも食べに行くか」「いいねー(ラーメンがいいのに)。」
相手の顔色を窺って、相手に合わせる、相手の機嫌を損ねない方がいいだろうと思って、相手に合わせるための、処世術としてのウソというものがあります。

ウソとは「その通りのことがあったにもかかわらずに、その通りの事を、そのまま伝えず、自分の中で勝手な情報をMIXしたもの」です。
自分が自分勝手に、カスタマイズ、編集しちゃったものです。
ここでのポイントは「自分」を入れているという事。
真実はいつも公的・オフィシャルなのに、そこに「自分」というプライベートなカスタマイズが起こるから、ウソになり嫌われるのです。
今後は自分のことも、他人の事も、職場の事も、私的な編集やカスタムをしないことを心がけてください。
ちゃんとした新聞・TVであれば福島の様子も嘘偽りなく報道するでしょう。
真実を報道すると、一部の金持ちにとって困る事がいっぱいある。だから嘘をつく、つかされる。
その通りの事を、そのまま伝えれば、もっと収束は早まったはずでしょう。
そこに、誰かのワタクシ化、私有化、占有化が起こったから、真実、事実が脚色されてしまって、福島も今、大変な事態になっています。
そのまま、その通りの事を、ワタクシ無しに伝えること。
それが、ウソの無いことであって、皆が救われる道です。
嘘をつかないようにしよう、ではなく、ワタクシを介入させない、自分を混ぜ込まないまま、そのままを伝えればよいのです。
それが、出来ない。
何故、出来ないのか。それも、実は自分に嘘をついて自分を優先させているからです。
自分がカワイイからです。
自分を優先させようとするから、今後も嘘が止まない。
この話の趣旨が分かれば、ちゃんと自分へのウソが止み、意見を採用しようと思う。
実は原因は、そこなのです。
嘘とは、自分がかわいい、自分びいき、自分優先だから出てくることなのです。
あなたの嘘がそこに向き合わせないのです。
素直に、聞き入れてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

嘘を言ったと気づいた時に

過去の、親御さんからの暴力から逃れるために、嘘を身につけてしまった、という事なのでしょう。当時は恐らく、そうするより他に逃れようがなかった(と判断した)のですね。
もう今はそんな子どもではなくなったけれど、癖となり、咄嗟の時に出てしまうのでしょう。
嘘って、けっこう反射的に出るんですよね。取り敢えずその場を取り繕ったりするために。で、嘘をついた直後に気づく。「また、やっちまった」と。恐らくそのときは、相手も半信半疑になる、微妙な時間があるでしょう。
そこが運命の別れ目です。
「本当、絶対、大丈夫!」と嘘を重ねていくか、「…ゴメンなさい、嘘です」と告白するか。坊さんクサイ話ですが、信というのは「人」と「言う」がくっついている字。言った事と本人がくっついているから信頼も生まれます。「嘘つきました」という告白そのものは、実は真実です。その時、信頼の種を撒けるチャンスです。
私は「過去の事を忘れて嘘をつかない…」は虫の良い話だと思います。むしろ嘘が損なってきた物事を忘れず、本当の事を言う力にしていって欲しいと願います。
まずは、「これこれは嘘でした」という真実を話す事からではないかと思います。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

もう嘘をつかなければいいのですよ

嘘をついてるのは誰ですか。あなたでしょ。もうはっきりしています。ですからもう嘘をつかなければいいのです。

あなたは嘘をつく時に何か自分を優位にしようとしてませんか。嫌われたくないだとか。
そうした考えが、嘘につながるのでしょう。過去に言われたことであなたが嘘つきになったというのは、少し違う気がします。知識として教えられたとしても、嘘つきへの道を選択しているのはあなたです。

ご自分をよく見てください。きっとあなたの意識はこの身があるところの有り様から離れてしまってませんか。ご自分の目の働き耳の働きなど五感を研ぎ澄ませてください。一切嘘つきではありません。嘘をつく必要がないのです。ご自分の立場を優先する 自我 の世界から、あなた自身の真実を感じるようにしてください。きっとわかります。

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有り難し
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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

煩悩スッキリコラムまとめ