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よくないかもしれませんが

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有り難し有り難し 35

僕は今まで初対面の人でも見知らぬ誰かでも言葉や態度に気を付けてきました。
年上の人にも失礼のないように色々考えて話してきました。
最近思うのがなんでこんな誰ともわからん連中や知らない人に対してこんなことしなくちゃなんないの?
ていうかルールがあるわけでもないのに、なんでこんな言葉に気を付けなきゃなんないのさってことです。
また、仕事仲間でも無条件に気を使うのも許せないです。
例え相手が誰でも気をつかったり、ましてや気遣い、「敬えよ」とか、「言葉や態度に気を付けろよ」と言われても、よっぽど自分に得なことじゃなきゃ納得いかないし、怒りを感じます。
なにが正しいんでしょうか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

はじめに尊敬あり

どんな人に対しても言葉や態度に気を付けてきたのですね。素晴らしい心がけだと思います。

「はじめに尊敬あり」とはあるお坊さんのお言葉です。人と関わる時の基本姿勢でありましょう。
尊敬のないところにあたたかな関係は開かれてきません。そんな関係いらないやっていうのなら何も気遣う必要はないと思いますがそれじゃ寂しくありませんか?

損得で言っても気遣いに得を感じられないとのことですが気を遣わないのは損しかないと思いますよ。

でもあまりの気遣いは時々疲れてしまいますね。そういう時はなんにも気を遣わないでいられる関係があると救われますね。そういう友人や同志に恵まれるためにも最初は気遣いをした方がよいのではないでしょうか?
いやしかし仏様ならどんな態度でも許してくれますけどね。

正しい正しくないより、本当は自分がどうありたいのかを考えてみてください。

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おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

「何をバカなことを言ってるんですか?」と私があなたにいきなり初対面にもかかわらず回答したとします。
何か面白くないでしょう。
だから、相手を尊重して、敬う。
それが世間のルールなのでしょう。 
丁寧語とはお互いに丁寧にしあっている関係なのです。
親友の場合はタメ口きいたりする方が楽でしょう。
ところが人によっては、それはいい印象を受けない場合があるのです。
相手に合わせて、相手がライトな言葉でも通じる方にはその様に話せばよいでしょう。
あなたの味が出てきたのかもしれませんね。
親しき仲にも礼儀ありで、話が通じる相手にあなたの本音トークを出し切ってみてください。
本当に付き合うべき相手が見つかれば、それで満たされると思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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