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聖天(歓喜天)様について

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有り難し有り難し 86

月に1回程度、密教系寺院を参拝しています。
境内には、様々な仏さまが祀られており、それら仏さまにお参りをしているのですが、本堂内に歓喜天様も祀られています。

歓喜天様は非常に厳しいので、「願掛けは安易にしないほうがよい」「下手に拝むより拝まんほうが身のため」、「修行を積んだ修験者でも、ちょっとでも間違った扱いをすると容赦なく祟り」、「聖天行者は短命」などいろいろな話を聞きます。

これら噂が本当かどうかわかりませんが、正直な話、怖いので、歓喜天様の前は素通りしようと思うのですが、他の仏様に手を合わせて、歓喜天様には手を合わせないのも非常に失礼なので、願い事などはせず、無心でお参りしております。

しかし、このようなことを考えながら参拝を続けるのは心苦しいので、どのように対応すればよろしいでしょうか、教えてください。

一度手を合わせたら、一生参拝を続けなければ、祟りがあるのでしょうか。(現実、それは難しいと思いますが。)

また、仮に自分が参拝を続けても、子や孫が参拝をしなかった場合、子孫にも影響が出るのでしょうか?

それとも、何も考えずに、無心で手を合わせるだけでもよいのでしょうか?

正しい参拝の仕方、無理のない参拝の仕方を教えてください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

せっかくのご縁、ぜひ手を合わせてください。

こんにちは。

お答えさせていただきます。

確かに、聖天様はじめ、天部の尊(仏教における神様)を拝む際に注意が必要というのは事実です。
行者(僧侶)が本格的に拝む際は様々な制約、注意点、心すべきことがあると伝わっています。
(e.g.力の足りない僧侶が拝む際は聖天さまを十一面観音様として拝む)

とはいえ、聖天様や天部の尊が人間に害を与えるわけではありません、

そもそも天部の尊は仏教に帰依する前にはその持っている力に溺れ、仏様や仏の教えに背き、欲望のまま好き勝手していた神々が多く存在します。

また、人間により近いところにおられるが故に人間の願いをより早く叶えてくれるとし、古くから信仰を集めてきました。
実際に天部の尊のご利益は凄まじい面もあります。

ですがその反面、その力、ご利益故に惑わされ、仏道修行の本質を見失い、我欲に溺れ身を滅ぼす行者(僧侶)は古来より多くおりました。

それ故、注意が必要とされてきました。

ですが、普通に手を合わせる分には全く気にすることはありません。

>また、仮に自分が参拝を続けても、子や孫が参拝をしなかった場合、子孫にも影響が出るのでしょうか?

影響は全くありません。心配いりません。大丈夫です。

懺悔と感謝の気持ちを持って心静かにお参りしてください。
もちろん、願掛けなど祈願もしていただいて結構です。

おん きりく ぎゃく うん そわか
合掌(^人^)

また参考までにこちらの回答もご覧いただければ幸いです。

https://hasunoha.jp/questions/16062

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有り難し
おきもち

未だ愚迷凡夫の身ではありますが、皆様の一助になるようなお答えができれば幸いです。 私自身、いわゆる「お寺の息子」として生まれましたが、小さなお寺ということや両親の教育方針もあり、感謝すること、仏様、お大師様に手を合わせることの大切さは教えられてきましたが、後継者としてのプレッシャー等は全くありませんでした。 実際、当初は仏門に入る心づもりなどなく、仏教とは関係のない分野の理系大学に進学し、在学中に起業。 仲間とIT系の会社を立ち上げたり、飲食業や人材派遣などの運営企画に携わる傍、ディスコやクラブのDJやバーのマスター、占い師(手相、姓名判断、九星気学、宿曜)としても仕事しておりました。 が、その中で思うことが度々あり僧侶を志し、お大師様とご本尊様のご加護のもとご縁に導かれ仏門に進みました。 今もいつもお大師様とご本尊浪切不動明王様方にはお導き頂き、助けて頂いております。 (趣味程度ですが、暦の研究や宿曜経の読解、気学をメインに占いは現在も嗜んでおります) 「目に見える世界」「目に見えない世界」を共に大切にして釈尊の末弟、宗祖弘法大師空海の末弟として、真言僧侶の立場、金剛乗仏教・密教の観点からお答えさせていただきます。 皆様からの相談を通じて、また他の僧侶の皆様のご回答を通じて多くを学べればと思います。 皆様との御法縁に感謝して精進してまいります。 煩悩即菩提 即事而真 当相即道 また自坊(金剛寺)では護摩祈祷会や阿字観体験会(阿息観による密教瞑想体験)も開催しております。 また自治体や地元社会福祉協議会様や企業、団体様より依頼を受けて法話(講話)や瞑想指導を不定期で行っております よろしくお願いいたします。 合掌
可否が時期によります ご相談ください

そういう心から離れることが歓喜

人間の人間による人知のせめぎあい。
そういう良し悪しやものの是非を問う。
そういう人間の思考世界ではどっちかが正しければどっちかは間違っているという相対観念の世界なのです。
そういう心を離れさせるのが歓喜天であり、導かれるべき「天」でしょう。
人間のルールの定めた天というところではなく、思考の創作物を離れた実物に安住する。
そこに本当の歓喜天をみることでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。
 そのような話は聞いたことないなぁ、と思って調べたら、ウィキペディアに「俗信」として、ご質問のような話が出てました。大丈夫です。お参りをして不幸がもたらされることはありません。
(もし本当にそのような事があるとしたら、お寺に注意書きがあるはずです。また知らずにお参りした人が不幸になるはずですが、そのような事もありません。)
 
 お参りするときは、他の仏さまと同様、身と口と心を調え、静かな気持ちでお参りしてください。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

ご返答いただき、ありがとうございました。インターネット上の書き込みに惑わされることなく、自分の目で確かめたいと思います。

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