うちの旦那はお坊さんだけど
私の勝手なイメージですが、どうにも納得いかないことがあります。
定期的に勉強会があるのは理解できるのですが、その後に必ず親睦会という名の飲み会があり、しかも泊まりです。
親睦会には必ずコンパニオンを入れます。
お坊さん達の飲み会にコンパニオンを入れるのは普通なのでしょうか?
理由はお杓子合うのが面倒くさいから、らしいけれど、単に女好きにしか思えないしちょっと気持ち悪いです。
こちらからすれば、せっかくの親睦会なら自分たちでお酌したら?と思います。
やはり、お坊さんとは言え女の子が好きなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お酌し合うのが面倒なのは事実です
よほど予算が潤沢なのですね…その点は羨ましいです。
私の所は逆に食事の量も少なめにして早目に中締め、後はおのおのでどこか行くなり、早く休むなり好きにして下さいという形です。理由は似たようなものですが、上の方々のご理解がいただけているから鶴の一声で出来ています。コンパニオンは入れません。
お坊さんの世界はおそらく日本中で最も上下関係が厳しい世界の1つです。ただ、同じ宗派でも地域によってかなり温度差が激しいので、南無さまの辺りは特にめんど…コホン、厳格な所なのかもしれません。
つい最近、超宗派の大法要に参加したのですが、控室で座っているとある人がこっちをチラチラ見ていました。他宗派の格好が物珍しいのかな?と思っていましたら、その人がおもむろに立って私の隣の老僧さんにご挨拶に伺い、こちらを睨みながら帰っていくのです。それも2回も。あぁ、私の方が若いのだからご挨拶に来なさいという意味か、そういう習慣のある所の人なのだな…と分かったのですが、そういったグループでは実際にトラブルになりかねないでしょうね。そこでギスギスするより、むしろ女好きと陰口叩かれる方がまだ痛くないと…あくまで想像ですが、そう思えばそれも一つの考え方かなという気もします。
お坊さんの最高の法友はお坊さんですが、反面、残念ながらお坊さんの最大の天敵もお坊さんです。お釈迦さまの原始教団でさえ同じでした。その中でお釈迦さまは「他人の非をあげつらわず、ただ自ら安住しなさい」(不説過)とお説きになりました。これは間違いを見逃せといういう意味ではなく、「他人の非を嫌うことは結局、自分の苦になりますよ」という意味です。一切皆苦のこの世で、一切皆苦から逃げるのではなく、一切皆苦の中であっても一生懸命に生きる覚悟を持つのがお釈迦さまの仏道ですよ。
好きなんでしょう。
女性から男性への愛情と、その反対方向は、きっと、釣り合っていません。
「お酌するのが面倒だ」は、あなたへの気づかいでしょう。面倒を避けるための。
なので、そこは真に受けてあげて欲しいなぁと思います。
本心は疑ったままで結構です。表面的に真に受けてあげてください。
でも…「私の勝手なイメージだけど」に気付けているのは素晴らしいです!
ただの女好きです。
よくあります。
一部のお坊さんの楽しみなんでしょう。
当宗派に限って言えば、浄土真宗は在家仏教なので修行をしませんし、戒律もありません。
俗人のまま袈裟を着ており、一般の方と何も変わらない人達です。
ですので、女性が好きなことは問題ではありませんが、一般的常識に照らし合わせたモラルやお金遣いには問題があるように思います。
飲み会でコンパニオンを呼んでいる様で僧侶の評価が落ちるのであれば、そうしてはいない僧侶にしてみれば甚だ迷惑なことです。
好きなんでしょうね
煩悩は10種類に分類でき、、悟りの段階に応じて、10種類の煩悩の、消えてゆく順番が決まっているそうです。
悟りには4段階あり、煩悩が消える順番にも4段階あるということ。
最初に消えるのは、10の煩悩のうち、有身見、疑、戒禁取という3つで、その3つが消えたら悟りの第1段階。
次に、悟りの第2段階で、欲と怒りが弱まるそうです。
さらに、悟りの第3段階で、欲と怒りが消えるそうです。
最後の、悟りの第4段階で、残り五種類の煩悩が消えて、完全に煩悩がなくなるそうです。(詳細割愛)
つまり、悟りの第1段階では欲望は減りもしない、悟りの第2段階でやっと欲望が減り、悟りの第3段階になるまで欲望は残っているのです。
つまり、お坊さんであっても、普通は、欲望はあるのです。
それを堂々と表に出すか、隠すか、制御しようとするか、の違いはありますが。
欲望を制御するための修行は、戒律や瞑想です。お坊さんも修行途中であり、欲望はあります。
質問者からのお礼
私は旦那しか興味ありません。
他の人など目移りもしないし、興味もありません。