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お祓いについて

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3回目のご相談です。いつもお世話になっております。

先日、義両親と私達夫婦と子ども達で、神社にお祓いに行ってきました。お祓いといっても義妹さんが妊娠中でしてその安産のお守りと、私達夫婦が今年マイホームを建てることになっていて、そのマイホームに置くお札を頂きにいき、お祓いも一緒にして頂きました。

その翌日、義父が尿管結石で病院へ通院することになり、その翌日には義弟が持病の腰痛が酷くなり朝起きれず病院へ検査へ行きました。
そしてその翌日には私の1歳の子どもが、高熱が出て病院へ行ったところ夏風邪と言われ、今寝込んでおります。
これはたまたま重なっただけでしょうか?
神社へ行った次の日に、立て続けに良くないことが起きていてとても気になります。これで収まればそれはそれでいいのですが不安です。こういった場合は別の神社でお祓いに行った方がいいのでしょうか?
ご回答ください。よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

真に払うべきは何か

御祈祷、お祓いとは本当はなにをするべきでしょうか。
まず、そもそも「良いこと 悪いこと」とはなんでしょう。
人間の良い悪いという「ものへの評価」とは過去の一部分をカットしてそこだけに対してよい悪いという評価をしているだけではないでしょうか。
「悪いことが起きませんように。」
「望ましくないことが起こりませんように。」
人に必要なのは人生に向き合うことです。
人任せではない、この事故の命にきちんと向き合う。
本当に向き合うべきところは「ものの根源・根本」です。
「良いこと 悪いこと」
それはいったい誰が決めていることでしょうか。
物事の本質を追求してみましょう。
どんなものも人間が評価する以前は、そこに人間の思いは何もラベルされていません。
そのラベル、思い込み、意味づけ、思い方を払うことこそお祓い・祈祷の要点です。
人生における最大の課題はそこが大事なのではないでしょうか。
心の底から真にお祓いがしたければ坐禅、参禅が効果的です。
参禅、坐禅とは自己に参ずることです。
坐禅とかいう謎の行を修行するのではなく、自己に向き合い、自己のありようを見つめて、自己を「明らか」にする道なのです。
自己が明らかになると、人間が頭の中で思い・想念を起こす前の本来の自分に目覚めることができます。
心が思いに動じなくなるのです。
そういう心を禅定といいます。
坐の禅・禅定を通して、人間の思考に染まる以前の本来の自己に目覚める。
そして、その様子で人生を明るく、軽やか、涼やか、明晰に生きることです。
人間の小さな良し悪しを離れ、本来の様子に目覚めることで払うべき想念がもともとどこにもないことを明らかにしてみてください。
お祓いが正しく行われなければ、念仏でも結構、坐禅でも結構、瞑想でも結構。
自分が得心が行く方法でのぞんでみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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