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諦めることと小欲知足

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私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。
大体、週に1日くらい行ってます。
そこで気が付いたことに対しての質問です。

回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。
今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。

ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、
『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』
と言ってきたとします。

自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。
また、自分の心の声で、
『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』
とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。

それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。
ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。

前置きが長くまり申し訳ありません。
ここで質問です。

1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。

2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。

3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。

最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。

アドバイスをお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ブッディズムかファッティズムか。 

1本当の少欲・知足とは、欲を少なくする、足ることを知るという意味合いではなく、
少欲…五感はものを知覚したとき、そのこと以外のことを付け足さない。あること以外のことを広く追及していないので、そのまま少欲なさまのままに、あれこれ広く求めずに処すること。
知足…自己の本来性はもの知覚して受け取っていることに限りがあり、他の混入なく限定的に受け取られている。他の事や想念がまるで生じていない限定的な知覚であるのだから、そのままに居ること。
※『正法眼蔵八大人覚』参照。
つまり回転寿司にたとえると(たとえるな)、エビを口にする時はイカがまだ味覚に生じていないし、タコを口にしたときはマグロはこの身の上に生じない。完全に自己がエビというタコを全うしている。ものが心身に触れた瞬間、触れたものしか味わっていない。
瞬時瞬時「一味」としての味が自己の上にあらわれるのみ。その瞬間、知覚も思いも他のことも追求していませんし限定的かつ絶対的。余念が生じない様子が少欲知足を全うしている様子です。イカの時はイカのみ。イカを口にしながらタコが目前を通過しても口の中にてタコの味あることなし。全身心を挙して「イカ」という他己の現成なり。
だから人によって基準が異なることは絶対ありません。
口にしたイクラの一粒という生命「イクラ」のDNAが、ほかの人の口に入ることがなく全宇宙にたった一人に一粒という限定的であり、そのイクラを口にしたときに、カツオもワカメもタラちゃんもまだ味覚としては生じていない。ものの知覚の姿は限定的で他事余事・他念余念がないのです。
2本当の「気づき」はdoのアクションではなくbeです。
DOの「気づき」を入れる瞑想指導はアウトです。有為・一物・やること・なすことがあるからお荷物になるからです。
流れゆく寿司の皿が何であれ流れるままにレリピーされているのが真の気づきです。
イクラだ、タコだ、エビだと分別で扱うのは二次的分別。
気づきとは無分別のままの第一次感受。分析なき観察。
知覚にあらわれても拾い上げのない事です。
流れゆく皿に「わたくし」という手をつけず、拾わぬこと。
知覚以上認識未満が「気づき」の真意です。
3・4ファッティズムであればただ只管に食べるのみ。単に食べることが好きなのでしょう。
ブッディズムは情報を交えて食べないこと。もしくは太ってもそれすら問題にしないこと。

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満腹感を充たしたいという欲望、味覚を充たしたいという欲望

 タイトルに書きました欲望の他に、「達成感」という欲望があるように思います。食べ終わった皿を積み上げるというシステムはお客の達成感を刺激するものであり、一種に営業戦略なのだと思います。それで、思い出すのが、岩手の「わんこ蕎麦」です。
 岩手県の蕎麦の食べ方で「わんこ蕎麦」というものがあります。小さい椀に入れた少量の蕎麦を店員さんが丼に入れてくれて、それを食べると店員さんが次に入れ、更に食べるを次を入れる。小さな椀が目の前に積み上げられ、人によって20杯、30杯、50杯、100杯と椀の高さは異なります。人間とはあさましいもので、満腹になっても更に椀を積み上げることに達成感を感じてしまうものです。「前回は65杯だったが、今回は70杯だった。」とどうでもいいような達成感に踊ろされているのです。あなたが回転寿司で食べ過ぎてしまうのも、営業戦略に踊ろされているのだと思います。


最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。

この点については、思い違いじゃないかと思います。皿を重ねることで、「これだけの量を食べた。」「これだけの種類を食べた。」という達成感を得ているのだと思います。まあ、私もグルメ記事や食べログに踊ろされて、蕎麦やラーメンの名店と呼ばれれる店を食べ歩くことがあります。あまり他人のことをとやかく言えません。『五観の偈』で説く「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。 二つには己が徳行の全欠を忖って、供に応ず。三つには心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす。 四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。五つには成道のための故に、今この食を受く。」を完璧には実行できないにしても、その意味するところをある程度理解して食事を戴きたいものです。

 「食べることを楽しむ」ことは決して悪いことでは無いと思います。たまには、営業戦略に踊ろされてでも「食べることを楽しんで」も良いと思います。でも、何事もほどほどに。

 

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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追記

前置きも質問の1から3まではあなたの言う通りだと思いますよ。
最後のは少し違うかなと思います。
食べ過ぎは病の元であり、寿命を縮めるのです。このことをあなたは知らないのではないでしょうか。つまり知らないこと(無知)が原因だと思います。

阿含経典にこんな話があります。
ある時、お腹いっぱいになった王様がお釈迦様に会いに来ました。お釈迦様は王様の姿を見て、お腹いっぱいに食べるのをやめなさいと言いました。
王様はその教えを側にいた家来に覚えさせ、毎回食事の時に、お釈迦様の教えを唱えるように言いました。すると王様は徐々に食べる量が減っていきました。ある時王様は自分の体を見て気がつきました。いつの間にか体が引き締まり、病も無く健康になっていたのでした。王様はお釈迦様の教えが正しかったと改めて確信したのでした。

お釈迦様は具体的に、お腹いっぱい食べないようにしなさいと、私達に教えているのですよ。

追記
他のお坊さんへのお礼コメントに梵天の事が有ったので少し書かせてくださいね。
私は阿含経典が好きなのですが、その中に梵天と魔羅がよく出てきます。これはおそらく、お釈迦様の心の中の良心を梵天、悪心を魔羅に置き換えているのではないかと思います。お釈迦様がたびたび梵天や魔羅と問答している様子が経典にあります。きっとそれはお釈迦様は心の中で自らの良心の導きを聞き、自らの悪心を退けているのでしょう。ですから梵天に頼まれて布教を始めたのは、その根本にはお釈迦様の良心や慈悲心があった為だと思いますよ。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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欲の本質は苦しみ 追記

生まれて日の浅い赤ちゃんの口に、おっぱいが近付いて来たとき、赤ちゃんは泣きます。
おっぱいが飲めるからうれしい場面のはずなのに、泣きます。
それは、「飲みたい」という欲望の刺激の本質が「苦」だからではないでしょうか。
欲は、快楽・悦楽を伴う煩悩です。
だから、お寿司を食べるときも美味しいと感じているでしょう。
しかし、お寿司を箸でつかみたい、口に入れたい、噛みたい、もう一度噛みたい、噛みたい、噛みたい、飲みこみたい、飲みこみたい、
もう1つ食べたい、
という欲望の連続は、実は、1つ1つが苦しみなのです。
だから、苦しみは、少ない方が良い、欲望が少ない方が良いのです。

追記
赤ちゃんが満腹のときは、おっぱいが近付いても「飲みたい」という苦しみが発生しませんから、おっぱいを無視して眠っているでしょう。
お寿司を食べることに満足したら、お寿司を食べないでしょう。
「食べたい」という苦しみがあるのは、まだ満足していない、不満があるからなのです。
食べないと死ぬではないか?まだ死にたくないから食べないといけないではないか?と思うかも知れません。
「生きたい」という欲、「生きたい」という苦しみがあるのは、生きることにまだ満足していないからです。
本当に生きることに満足したら、生きる必要がなくなります。生き者の世界、六道輪廻から卒業するのです。それを日本語で「成仏する」と言います。仏教用語では無余涅槃に入る、入滅すると言います。
悟ったときのお釈迦様は、生きることに満足したから、それ以上生きる必要を感じなくなりました。しかし梵天に頼まれて、人々のために生きることにしたのです。煩悩がないから、梵天の頼みを断る必要もなかったのでしょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

>>聖章様
どうもお返事ありがとうございます。
そうですね。最後の質問に対する自分の考察は、全く知らない無知なものでした。
雑阿含経のパセーナディ王の事ですね。
何事もついつい程々を超えてしまう。
『まだ大丈夫』という間違った認識が過不足を招いてしまうのですね。
肝に銘じて気を付けます。

>>吉田俊英様
どうもお返事ありがとうございます。
確かに、お寿司屋さんの『営業戦略』に乗せられている感があります。
例えば、値段が同じでも回らない寿司だったら通うかというと、なかなか通わないと思います。
そのうえで満腹感や味覚・嗅覚・視覚・触覚への欲望を満たしてほしいという思いがあります。
ただ、達成感というと少し疑問で、『他人の言動や過去の記録にかかわらず、もう十分だな』と食べることを止めてる時点で、比べていないので達成感はないのかなと思います。また食べたい種類と食べれる種類(の数)は一致していませんが、次回は全然違う種類を食べるという事もないので達成感はないのかなと思います。
もちろん、『満腹になることを達成する』という事であれば達成感への執着がありますが、食べ過ぎて苦しいという経験から次回からは『少し食べる量は減らそうか』という事を考えてる時点で、やはり達成感への執着は捨ているのかなと思います。
もちろん、次回からの『腹八分の達成感』『腹五分の達成感』というのがあるとして、欲があってもそこに執着が生じない限りは煩悩(貪瞋痴)にはなりえないのかなと思います。
煩悩なければ苦が無く苦が無いのならば、自分的には良いのかなと思っています。
結論は仰られていると通り、ほどほどにという答えに行きつくのですが。

>>丹下覚元様
お返事ありがとうございます。
小欲知足の禅のお話になってきますね。
原始ブッディズムに近いのでそういうお話は大好きです。
ただし、私には師がいないので難しいなと感じるところが多いですが。

本来の小欲知足は『在るがままを受け入れ、受け入れたもので足るを知る』という意味で、人によって基準が異ならないという事ですが、寿司屋でたまたま液晶パネルで注文したネタが『自分にとってわさびが辛いんですけど』という苦が生じている場合でも、次回からサビ抜きで頼むことは小欲知足の観点からダメなのでしょうか。また、辛さに拘らない事を旨としたとしても人によってはちょうど良いからさで苦が無い、または辛さが足りないという事で苦であるという人もいると思います。つまり『小欲』の『小』は『大』または『多』との比較であると思いますが、比較が出ることは『絶対』ではなく『相対』ではないでしょうか。
また、
>瞬時瞬時「一味」としての味が自己の上にあらわれるのみ。その瞬間、知覚も思いも他のことも追求していませんし限定的かつ絶対的。余念が生じない様子が少欲知足を全うしている様子です。

ですが、さび抜きのネタを食べたときはさびの味はしませんが、わさびが利いたネタを食べた後にさび抜きのネタを食べてたらワサビが残っていないのに口の中は辛い。そして辛みはだんだんと消えていく。これは皿を取らないと気づかないことでまた、無いのに(辛いと)感じすぐ消えるという事は、Doを行わなければ気づかない事ではないでしょうか。

>>願誉浄史様
お返事ありがとうございます。
赤ちゃんの事はよく観察していなかったのでわからないのですが、確かに苦しみは少ない方が良いですね。
『食べることも苦しみ』20年前に古典の先生に言って呆れられたのを思い出しました。
そっからすっかり『食べることは苦しみ』を忘れていました。
で願誉浄史様のレスを見て思い出しました。

こっからは自分の体験談でのお話なので、他の人には当てはまらないと思うのですが、今は特に自分にとって食べることは苦しみではないです。
なんで今は苦しくないんだろう。生命維持活動に必要不可欠なのに。と思ったら、もともと苦が少なくなった考え方『食べても食べなくても私はいつか死ぬ(諸行無常・諸法無我)』
だからもっと他にすることあるだろう、と。

『自分も周りもみんな死ぬ。偉大なブッダも苦しんで(?)最後は赤痢で死んだ』をここ数年ずっと考えてました。
別に死にたくはないですし、もし病気になったり怪我したりナイフで刺されたら病院行ったり救急車呼びますけど、虚無主義でも破滅主義でもなく自殺願望も無いのに何でこんなこと考えて楽になるんだろうか、頭おかしくなったのかなと思ってググったら、『死隨念』というものがあって、あぁ苦が消えた原因はこれなのか、と思いました。ただ、体系化された瞑想方法じゃなくて、自分で勝手に想像してただけなんですけどね。
だから今現在の感想ですが、まぁ、死にたいとは思いませんが今死んでも特に後悔はないかな、という感じです。
ブッダが梵天勧誘を受けた理由は分かりませんが(そもそも梵天って・・・何かの比喩なのかな?)、ただそのおかげで(また湧き出てくるんでしょうが)今は殆どの苦が滅した。
だからブッダにただただ感謝するだけです。

追記
>>聖章様
常に心の声を聴かれていたから湧き出るものに対しても冷静に対処できたんでしょうね。
原始仏典にはそういうのが沢山出てきますね。

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夫の過去の浮気が忘れられない

浮気、不倫など自分とは無縁だと思っていたら、夫が不倫していました。 夜中に自分の部屋で女と電話している所を同居の娘に聞かれてバレました。 娘も私に言い出さなくて、2ヶ月は胸に秘めていたそうです。 女と遊び始めてからは、夫は 仕事にも行かず、女のシフトに合わせての外出、外泊、3日空けずに女と昼間からホテル。私は離婚するつもりで、探偵を雇い 証拠を揃えて、弁護士も雇い、女に慰謝料請求しました。怒り狂った夫は、私と娘に恫喝まがいの暴言を吐きましたが、結局は、慰謝料請求を取り下げて欲しいと言う事。もちろん、却下するものの、女は弁護士から送られた内容証明を無視。 弁護士からもあんな酷い態度の女性は初めてで、無視を続けてる以上、どうしようもない。訴えたところで、離婚していないのなら、判決で決まる慰謝料なんて少額。 訴えれば、私が損をすると畳み込まれました。 夫とは、よくよく話し合い、許してはいないけど、謝罪は受け入れる事にし、仕事にも復帰した夫、憑き物が取れたように、顔つきも元に戻り、平穏な毎日を送っていますが、私はあの女が許せないままになっています。夫が1番悪いことはわかっているつもりですが、無視をしつづけてる女が許せない気持ちが続いてしまってます。 自宅のパソコン、夫のLINEが同機していたので、2人のLINEやりとりはずっと見ていました。見てはいけなかったのでしょうが、探偵に情報を送るために確認していました。そのLINEには女が、離婚をそそのかしていたり、泊まりをねだっていたり、私の悪口を書いていたり、別れると言いながら、夫を呼び出しホテルで仲直りを繰り返している事がわかりました。 夫はもう一年前の事、もう終わった事と自分の中では終わらせてしまってます。 夫とは穏やかに暮らしているものの、私には落とし所が見つけられないままになっています。こんな私は見苦しいですよね? 再構築を選択したとは言え、あの頃の夫の顔つきや、暴言などがフラッシュバックしてしまいます。 こんな私にお言葉を頂ければありがたいです。残りの人生を穏やかに暮らしたいのです…

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普通の家庭への羨望、前向きにがんばれない

あまり一般的とは言えない家庭で育ちました。 親は共働きですが父親が働いたお金をすべてギャンブルに注ぎ込むため、生活費や学費がなくなり子どもの私や姉が高校に入学すると同時にバイトを始め母と一緒に生活費を工面する生活でした。高校卒業時に全部自分で責任を背負うことを決め家を出て、大学に進学しました。そして海外の大学院に進学し今に至ります。 現在私は30歳になり、海外で自分がずっとやりたかった仕事ができています。 それは子どもの頃からの地獄のようなアルバイトの生活とこれからの奨学金の返済義務を犠牲にやっとこの場所に立てているのです。なのにただ何もかも用意された環境で育ち、困ったことがあればすぐに頼れる実家や家族がいて、お金の心配をする必要なく日々を前向きに過ごせている周りの友だちが羨ましくて仕方ありません。 その上「逆境こそがんばらなきゃ!貧困を努力で乗り越えた人たちはたくさんいるよ!」「もっと賢い方法でお金を稼ぎなよ」と子どもの頃から何不自由なく育った人たちに言われても、素直に受け取れません。 周りからがんばれと言われても、そもそも子どもの頃から全部自分で稼いできた人が存在すること、親に頼れない家庭が存在することを知らない人ばかりで実際私の立場は誰にもわかってもらえないことと、周りとのスタート地点の大きな差をただただ思い知らされて心が折れそうです。 「確かにあの時もっとかんばれたんじゃないか?あの時少し怠けていたんじゃないか?」など自分の技量不足や努力不足も疑い始めました。でもこれでも立ち止まらず、立ち止まれずに心と体をぐちゃぐちゃに壊しながらも今まで一生懸命やってきました。 これからももっともっと前向きにがんばってお金を稼がなければなりません。それなのに私は今も周りの生まれた環境を羨み、比較して、なぜ私は今までもこれからもこんなに苦しまなければならないのかと絶望してしまいこれ以上がんばれないままでいます。 周りとの生まれの違いを気にせずに、どうやったら前向きにがんばれるでしょうか?

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SNSでの誹謗中傷が長い間続いています。

あるSNSで複数人、グループのような形で仲良く交流をしてた人々がいました。(以下、ネッ友たちと記載させて頂きます。) そのネッ友たちとは約4年程交流していたのですが、ある日、ちょっとした事で喧嘩をしてしまい、いわゆる喧嘩別れをしました。 喧嘩の内容は、意識のすれ違いというか、 正直なところ、何故そこまで執着して責められないといけないのだろう…といった内容です。どちらに非があるのか、聞かれれば微妙な内容です。 喧嘩をした後は速攻アカウントを削除しネッ友たちから離れました。 それから2年後のある日、たまたまネッ友たちの内の1人のアカウントを発見してしまい、興味本位で覗いてしまいました。 悲しい事に、まだ私に関する悪口が沢山書かれていました。 過去の私の投稿や発言を転載し、揶揄する内容のものもありました。 会話のやりとりもあったため、察するに仲間内で盛り上がり、当時のメンバー全員で書いているのだと思います。 とても怖く、ショックであったため、もうそのアカウントは見ておりません。 お恥ずかしい話なのですが、当時、そのネッ友たちに自身の本名などの個人情報を伝えてしまったため、いつか個人情報をインターネットにバラまかれたりしないか?と心配で仕方ありません。 住所なども特定されてしまう、または既に特定されているのではないか?と余計な妄想までしてしまい悩んでいます。 自分の失態が招いた出来事であるのは勿論承知なのですが、デジタルタトゥーを残されることが特に心配なのです。 正直なところ、2年も誹謗中傷が続いているものですから、何をされていてもおかしくないと考えております。 現在進行形で悪口が書かれる事と、個人情報がインターネットにバラ撒かれないか、という不安で大変辛いです。 毎日、普通に生活していても、ふとした瞬間に書き込まれた悪口を思い出しては辛い気持ちになり、「今も悪口を言われているのだろう。」といった悪い思考に取り憑かれています。 どうしても病的に思い出してしまいます。 私は一生、この不安や憂鬱な気持ちと付き合っていく他ないのでしょうか。 どうすればSNSでの誹謗中傷を気にせずに居られるでしょうか? 何せ粘着されている期間が期間であるため、精神的に大変参っております。 どうすれば気にならなくなるか、または立ち直り方など、心の持ちようをお教えください。

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愛染明王様のご真言を一般人が唱えて良いか

初めまして。 私は、実家の宗派が浄土真宗ですが、中学校と高校が真言宗の学校であり、真言宗のお寺によくお参りに行っております。 そのような中で、真言宗の僧侶の方がお書きになった本を拝読し、YouTubeを拝読する機会があり、愛染明王様のご真言が書かれておりました。 そこで、自分にとっての良縁が結ばれるようにと、自宅で白い紙にお願い事と自分の名前を書き、その紙を両手で挟んで 愛染明王様に語りかけ、ご真言を毎日何回か唱えております。 すると、私にとって良い意味で不思議な出来事がたくさん起こり始め、なんだか毎日が安定して楽しい未来を想像してワクワクしてまいりました。 しかし、ネットでより深く調べてみると、「ご真言を素人が唱えるのはよくない」「敬愛法は素人が安易に行ってはいけない。代償が起きることがある」と書かれており、少し不安になりました。 そこで私は、「確かに、自分はご利益の内容をきっかけにご真言を唱え始めたので、不純で恐縮だった。」と反省しつつ、 「愛染明王様のおかげさまで日々私は安心して楽しく暮らせるようになったのだから、その感謝と挨拶を、愛染明王様が祀られているお寺に伺ってお伝えしよう」と考えるようになりました。 そしてそのまま愛染明王様との繋がりを信じ、ネットの記事を気にせずご真言をお唱えしているのですが、良いのでしょうか?また、よくお参りする真言宗のお寺とは別に、愛染明王様が祀られているお寺やその他のお参りしたい神社仏閣に複数お参りに行くことは、良くないことなのでしょうか?

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楽に生きたい

私は物事をマイナスに考える癖があるようです。 いつも怒られるのではないか、誰かから攻撃されるのではないか、嫌われているのではないかとビクビクしながら生きている事に気づきました。 「ちゃんとしなくちゃ」とか「人に迷惑かけないように」とかいつも気が張っていて何処にいても誰といても休まりません。 常に自分で自分を追い詰めているようです。 かと言って他人にそういう自分の状態を出しているわけではなく、周りの人は私がそんな事考えてるなんて思ってもいないと思います。 そのギャップにも苦しいです。 私は繊細で、大体の人が気にもしないような事を気にしているようです。 人の表情を読み取ってしまったりします。(今この人言ってる事と思ってる事違うな。など) 私のような人間がいる一方で、適当に生きている人(例えば人の話を聞かない人とか、遅刻する人、挨拶しない人、無愛想な人など色々な方がいますが)は凄く自由に見えて、ルールを守らなくても難なく生きてる人もいるんだと疑問に思ってしまいます。 嫌われていると思っていた人に話をしてみたら、そんな事ひとつも思ってないよ?大丈夫だよ?と言われたのですが、表情を読めば私に対して良く思っていないような感じに見えるので、「本心では嫌いだけど大人の対応をしてくれているんだ」と疑心暗鬼になってしまって辛いです。 他人の機嫌を損ねるのが怖いですし、自分を否定されるのが怖いです。 死を考える事は無くなりましたが、1日1日を終えるのが精一杯です。 もっと自由に生きられたらどんなに楽しい人生になるんだろう…。 自分なりに改善策を調べ、何度も何度も実行していますが、なかなか考え方が変わりません。 とにかく生きづらいです。 どうすれば楽に生きられるでしょうか?

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必要以上の罪悪感を抱かなくする為には…?

最近、ちょっとしたことに罪悪感を感じてしまいます。勿論、謝るべきだなと思った事は直ぐ謝るのですが、普通の人なら気にしないようなことに対しても、謝った方がいいのかな?って何に対してもそう思ってしまうときがあります。 例えるなら、外に出かけてて、壁にカバン、もしくは手が軽くぶつかっただけでも、傷付けてしまっていてはどうしようと思って確認しても傷も何一つ無くても、明らかに自分がぶつけたところとは違う所に傷を見付けた時も、実は私がしたんじゃないか?ってモヤモヤしてしまったり、他にも普通の人なら謝らないような小さな事に対しても罪悪感を凄く感じてしまい常に謝ろうか考えてしまいます。 ですが、最近は、その何に対しても罪悪感を感じて謝ろうとするのは、相手を思って謝ろうとしてるのではなく、自分のこの何に対しても感じる罪悪感を消そうとして気持ちを押し付けようとしてるだけだと思うようになりました。 本当に相手を思うのなら、時と状況を見極めて、何の為に謝るのかを考え、相手のためになることをするべきだと思うのですが、普通なら気にしない小さな事でも、申し訳ないことをしたと思い、凄く罪悪感が出てきてしまいます。 特に、大きな失敗した時やメンタルが落ち込んでる時にこういう風になりやすいです。 どうしたら、必要以上の罪悪感を感じなく、小さな事に対して動じなくいられるような精神力を付け穏やかにいられるようになりますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ