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諦めることと小欲知足

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私は回転寿司に頻繁にご飯を食べに行きます。
大体、週に1日くらい行ってます。
そこで気が付いたことに対しての質問です。

回転寿司ではほぼ毎回、お皿22枚(44貫)と青さの味噌汁1杯食べたところでお腹がはちきれんばかりになります。
今日はお皿18枚(36貫)と青さの味噌汁1杯でお腹がはちきれんばかりになり帰ってきました。

ここで普段30皿(60貫)と青さの味噌汁2杯食べる人が、
『その程度の食事で諦めるな(放棄するな)。もっと記録を目指せ』
と言ってきたとします。

自分の中では満足しており別に上を目指す気もない場合は、『諦めている(放棄している)』とはみなしていないです。
また、自分の心の声で、
『普段はもっと食べているんだから諦めず(放棄せず)に普段の記録まで持っていけ』
とあったとしても、今はお腹いっぱいなのでやっぱり『諦めている(放棄している)』とはみなしていないと思っています。

それどころか、満腹でお腹が苦しいという事は、食べ過ぎており、諦めていない(明らかに見ていない=邪見)であるから、次回からはよく心を観察して、今回より減らして食べよう、そしてそれが苦しまずに足りているか確認し、多いようならまたその次は減らそう。
ただし、明らかに少ない皿数(1皿2貫or青さの味噌汁1杯)だけを食べて帰るという真似は足りてないからやめよう、と考えております。

前置きが長くまり申し訳ありません。
ここで質問です。

1.出家者にしろ在家者にしろ、明らかに見た(諦めた)結果の小欲知足は、人によって基準が違うのでは。だからやり方は教えれるけど答えは人によって違うのではないか。

2.ブッディズムでいうところの『気付き』は、特別な場所や時だけのものではなく、いつでもどこにでも転がってお普段から注意深く観察しておれば、誰でもできる『行』となるのではないか。

3.なぜ自分は毎回食べる前からわかっているのに、苦しくなるまで食べ過ぎて苦しんでしまうのか、、それはあれもこれも食べなければ(しなければ)ならないという思い込み、つまり正思惟の逆のことをやっているからでしょうか。

最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。

アドバイスをお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ブッディズムかファッティズムか。 

1本当の少欲・知足とは、欲を少なくする、足ることを知るという意味合いではなく、
少欲…五感はものを知覚したとき、そのこと以外のことを付け足さない。あること以外のことを広く追及していないので、そのまま少欲なさまのままに、あれこれ広く求めずに処すること。
知足…自己の本来性はもの知覚して受け取っていることに限りがあり、他の混入なく限定的に受け取られている。他の事や想念がまるで生じていない限定的な知覚であるのだから、そのままに居ること。
※『正法眼蔵八大人覚』参照。
つまり回転寿司にたとえると(たとえるな)、エビを口にする時はイカがまだ味覚に生じていないし、タコを口にしたときはマグロはこの身の上に生じない。完全に自己がエビというタコを全うしている。ものが心身に触れた瞬間、触れたものしか味わっていない。
瞬時瞬時「一味」としての味が自己の上にあらわれるのみ。その瞬間、知覚も思いも他のことも追求していませんし限定的かつ絶対的。余念が生じない様子が少欲知足を全うしている様子です。イカの時はイカのみ。イカを口にしながらタコが目前を通過しても口の中にてタコの味あることなし。全身心を挙して「イカ」という他己の現成なり。
だから人によって基準が異なることは絶対ありません。
口にしたイクラの一粒という生命「イクラ」のDNAが、ほかの人の口に入ることがなく全宇宙にたった一人に一粒という限定的であり、そのイクラを口にしたときに、カツオもワカメもタラちゃんもまだ味覚としては生じていない。ものの知覚の姿は限定的で他事余事・他念余念がないのです。
2本当の「気づき」はdoのアクションではなくbeです。
DOの「気づき」を入れる瞑想指導はアウトです。有為・一物・やること・なすことがあるからお荷物になるからです。
流れゆく寿司の皿が何であれ流れるままにレリピーされているのが真の気づきです。
イクラだ、タコだ、エビだと分別で扱うのは二次的分別。
気づきとは無分別のままの第一次感受。分析なき観察。
知覚にあらわれても拾い上げのない事です。
流れゆく皿に「わたくし」という手をつけず、拾わぬこと。
知覚以上認識未満が「気づき」の真意です。
3・4ファッティズムであればただ只管に食べるのみ。単に食べることが好きなのでしょう。
ブッディズムは情報を交えて食べないこと。もしくは太ってもそれすら問題にしないこと。

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満腹感を充たしたいという欲望、味覚を充たしたいという欲望

 タイトルに書きました欲望の他に、「達成感」という欲望があるように思います。食べ終わった皿を積み上げるというシステムはお客の達成感を刺激するものであり、一種に営業戦略なのだと思います。それで、思い出すのが、岩手の「わんこ蕎麦」です。
 岩手県の蕎麦の食べ方で「わんこ蕎麦」というものがあります。小さい椀に入れた少量の蕎麦を店員さんが丼に入れてくれて、それを食べると店員さんが次に入れ、更に食べるを次を入れる。小さな椀が目の前に積み上げられ、人によって20杯、30杯、50杯、100杯と椀の高さは異なります。人間とはあさましいもので、満腹になっても更に椀を積み上げることに達成感を感じてしまうものです。「前回は65杯だったが、今回は70杯だった。」とどうでもいいような達成感に踊ろされているのです。あなたが回転寿司で食べ過ぎてしまうのも、営業戦略に踊ろされているのだと思います。


最後は、それでも毎回やめないのは、今現在苦しくても時間がたてば苦しみも治まる(諸行無常である)。それどころか生きてる実感があると高をくくっているところがありますが。

この点については、思い違いじゃないかと思います。皿を重ねることで、「これだけの量を食べた。」「これだけの種類を食べた。」という達成感を得ているのだと思います。まあ、私もグルメ記事や食べログに踊ろされて、蕎麦やラーメンの名店と呼ばれれる店を食べ歩くことがあります。あまり他人のことをとやかく言えません。『五観の偈』で説く「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。 二つには己が徳行の全欠を忖って、供に応ず。三つには心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす。 四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。五つには成道のための故に、今この食を受く。」を完璧には実行できないにしても、その意味するところをある程度理解して食事を戴きたいものです。

 「食べることを楽しむ」ことは決して悪いことでは無いと思います。たまには、営業戦略に踊ろされてでも「食べることを楽しんで」も良いと思います。でも、何事もほどほどに。

 

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 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努め...
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追記

前置きも質問の1から3まではあなたの言う通りだと思いますよ。
最後のは少し違うかなと思います。
食べ過ぎは病の元であり、寿命を縮めるのです。このことをあなたは知らないのではないでしょうか。つまり知らないこと(無知)が原因だと思います。

阿含経典にこんな話があります。
ある時、お腹いっぱいになった王様がお釈迦様に会いに来ました。お釈迦様は王様の姿を見て、お腹いっぱいに食べるのをやめなさいと言いました。
王様はその教えを側にいた家来に覚えさせ、毎回食事の時に、お釈迦様の教えを唱えるように言いました。すると王様は徐々に食べる量が減っていきました。ある時王様は自分の体を見て気がつきました。いつの間にか体が引き締まり、病も無く健康になっていたのでした。王様はお釈迦様の教えが正しかったと改めて確信したのでした。

お釈迦様は具体的に、お腹いっぱい食べないようにしなさいと、私達に教えているのですよ。

追記
他のお坊さんへのお礼コメントに梵天の事が有ったので少し書かせてくださいね。
私は阿含経典が好きなのですが、その中に梵天と魔羅がよく出てきます。これはおそらく、お釈迦様の心の中の良心を梵天、悪心を魔羅に置き換えているのではないかと思います。お釈迦様がたびたび梵天や魔羅と問答している様子が経典にあります。きっとそれはお釈迦様は心の中で自らの良心の導きを聞き、自らの悪心を退けているのでしょう。ですから梵天に頼まれて布教を始めたのは、その根本にはお釈迦様の良心や慈悲心があった為だと思いますよ。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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欲の本質は苦しみ 追記

生まれて日の浅い赤ちゃんの口に、おっぱいが近付いて来たとき、赤ちゃんは泣きます。
おっぱいが飲めるからうれしい場面のはずなのに、泣きます。
それは、「飲みたい」という欲望の刺激の本質が「苦」だからではないでしょうか。
欲は、快楽・悦楽を伴う煩悩です。
だから、お寿司を食べるときも美味しいと感じているでしょう。
しかし、お寿司を箸でつかみたい、口に入れたい、噛みたい、もう一度噛みたい、噛みたい、噛みたい、飲みこみたい、飲みこみたい、
もう1つ食べたい、
という欲望の連続は、実は、1つ1つが苦しみなのです。
だから、苦しみは、少ない方が良い、欲望が少ない方が良いのです。

追記
赤ちゃんが満腹のときは、おっぱいが近付いても「飲みたい」という苦しみが発生しませんから、おっぱいを無視して眠っているでしょう。
お寿司を食べることに満足したら、お寿司を食べないでしょう。
「食べたい」という苦しみがあるのは、まだ満足していない、不満があるからなのです。
食べないと死ぬではないか?まだ死にたくないから食べないといけないではないか?と思うかも知れません。
「生きたい」という欲、「生きたい」という苦しみがあるのは、生きることにまだ満足していないからです。
本当に生きることに満足したら、生きる必要がなくなります。生き者の世界、六道輪廻から卒業するのです。それを日本語で「成仏する」と言います。仏教用語では無余涅槃に入る、入滅すると言います。
悟ったときのお釈迦様は、生きることに満足したから、それ以上生きる必要を感じなくなりました。しかし梵天に頼まれて、人々のために生きることにしたのです。煩悩がないから、梵天の頼みを断る必要もなかったのでしょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

>>聖章様
どうもお返事ありがとうございます。
そうですね。最後の質問に対する自分の考察は、全く知らない無知なものでした。
雑阿含経のパセーナディ王の事ですね。
何事もついつい程々を超えてしまう。
『まだ大丈夫』という間違った認識が過不足を招いてしまうのですね。
肝に銘じて気を付けます。

>>吉田俊英様
どうもお返事ありがとうございます。
確かに、お寿司屋さんの『営業戦略』に乗せられている感があります。
例えば、値段が同じでも回らない寿司だったら通うかというと、なかなか通わないと思います。
そのうえで満腹感や味覚・嗅覚・視覚・触覚への欲望を満たしてほしいという思いがあります。
ただ、達成感というと少し疑問で、『他人の言動や過去の記録にかかわらず、もう十分だな』と食べることを止めてる時点で、比べていないので達成感はないのかなと思います。また食べたい種類と食べれる種類(の数)は一致していませんが、次回は全然違う種類を食べるという事もないので達成感はないのかなと思います。
もちろん、『満腹になることを達成する』という事であれば達成感への執着がありますが、食べ過ぎて苦しいという経験から次回からは『少し食べる量は減らそうか』という事を考えてる時点で、やはり達成感への執着は捨ているのかなと思います。
もちろん、次回からの『腹八分の達成感』『腹五分の達成感』というのがあるとして、欲があってもそこに執着が生じない限りは煩悩(貪瞋痴)にはなりえないのかなと思います。
煩悩なければ苦が無く苦が無いのならば、自分的には良いのかなと思っています。
結論は仰られていると通り、ほどほどにという答えに行きつくのですが。

>>丹下覚元様
お返事ありがとうございます。
小欲知足の禅のお話になってきますね。
原始ブッディズムに近いのでそういうお話は大好きです。
ただし、私には師がいないので難しいなと感じるところが多いですが。

本来の小欲知足は『在るがままを受け入れ、受け入れたもので足るを知る』という意味で、人によって基準が異ならないという事ですが、寿司屋でたまたま液晶パネルで注文したネタが『自分にとってわさびが辛いんですけど』という苦が生じている場合でも、次回からサビ抜きで頼むことは小欲知足の観点からダメなのでしょうか。また、辛さに拘らない事を旨としたとしても人によってはちょうど良いからさで苦が無い、または辛さが足りないという事で苦であるという人もいると思います。つまり『小欲』の『小』は『大』または『多』との比較であると思いますが、比較が出ることは『絶対』ではなく『相対』ではないでしょうか。
また、
>瞬時瞬時「一味」としての味が自己の上にあらわれるのみ。その瞬間、知覚も思いも他のことも追求していませんし限定的かつ絶対的。余念が生じない様子が少欲知足を全うしている様子です。

ですが、さび抜きのネタを食べたときはさびの味はしませんが、わさびが利いたネタを食べた後にさび抜きのネタを食べてたらワサビが残っていないのに口の中は辛い。そして辛みはだんだんと消えていく。これは皿を取らないと気づかないことでまた、無いのに(辛いと)感じすぐ消えるという事は、Doを行わなければ気づかない事ではないでしょうか。

>>願誉浄史様
お返事ありがとうございます。
赤ちゃんの事はよく観察していなかったのでわからないのですが、確かに苦しみは少ない方が良いですね。
『食べることも苦しみ』20年前に古典の先生に言って呆れられたのを思い出しました。
そっからすっかり『食べることは苦しみ』を忘れていました。
で願誉浄史様のレスを見て思い出しました。

こっからは自分の体験談でのお話なので、他の人には当てはまらないと思うのですが、今は特に自分にとって食べることは苦しみではないです。
なんで今は苦しくないんだろう。生命維持活動に必要不可欠なのに。と思ったら、もともと苦が少なくなった考え方『食べても食べなくても私はいつか死ぬ(諸行無常・諸法無我)』
だからもっと他にすることあるだろう、と。

『自分も周りもみんな死ぬ。偉大なブッダも苦しんで(?)最後は赤痢で死んだ』をここ数年ずっと考えてました。
別に死にたくはないですし、もし病気になったり怪我したりナイフで刺されたら病院行ったり救急車呼びますけど、虚無主義でも破滅主義でもなく自殺願望も無いのに何でこんなこと考えて楽になるんだろうか、頭おかしくなったのかなと思ってググったら、『死隨念』というものがあって、あぁ苦が消えた原因はこれなのか、と思いました。ただ、体系化された瞑想方法じゃなくて、自分で勝手に想像してただけなんですけどね。
だから今現在の感想ですが、まぁ、死にたいとは思いませんが今死んでも特に後悔はないかな、という感じです。
ブッダが梵天勧誘を受けた理由は分かりませんが(そもそも梵天って・・・何かの比喩なのかな?)、ただそのおかげで(また湧き出てくるんでしょうが)今は殆どの苦が滅した。
だからブッダにただただ感謝するだけです。

追記
>>聖章様
常に心の声を聴かれていたから湧き出るものに対しても冷静に対処できたんでしょうね。
原始仏典にはそういうのが沢山出てきますね。

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