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娘を愛せない

回答数回答 1
有り難し有り難し 56

片付けもせず、散らかし放題。
頭も悪い癖に勉強もせず、学校の提出物も出さず、
注意されると、怒られたくないからと嘘と言い訳ばかりの中学生の娘と母親の私。

条件がクリアできないのならばと要求を却下したら、
親のせい、友達のせい、どうせ自分の願いは通らないからもうどうでもいいわと自暴自棄。

結局本日も、やりっぱなし、不遜、いい加減のフルコースだった為、態度を注意したら居直って食って掛かってくるので、こちらも限界。
結局は準備から後始末まで全部親に押し付けるくせに、子供は自身の手抜きについては仕方ないだろうと居直って。
我慢も限界、ひっぱたいたら、虐待だ、頭おかしいから精神科に行けと大騒ぎ。

この節、子供の世界も大変理不尽であり、ストレスを抱えていることは理解するが、だからと言って、ふてくされて良いとは思えないので、屈することができない私。

自分の事は棚に上げ、鬼の形相で食ってかかる娘の顔が目に焼き付いて離れない。
末恐ろしいので縁を切りたいと、本日決定的に思った。
おまけに自分勝手でネグレクト姑とそっくりな顔と声がさらに嫌で。
生まれた時から嫌いだったが、手間暇かけることで愛そうと努力もしてきたつもりだ。

子は親を選べないというけれど、親だって子供を選べない。
私は子供時代に親の理不尽に苦しみ、親になった今は信用に値しない娘に苦しめということか。
出来損ないの子供のツケを払って生きることに絶望する。。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

娘が気に食わない = 自分の思い通りにならなくて嫌い

娘さんを愛せないのではなく「愛さない」だけでしょう。
愛のレベルが低いだけだと思います。
世の父親が息子が反発をするのが気に入らんと相手の話も聞こうとせず頭ごなしに押さえつけてしまうように、母親は娘との確執は年頃になれば当然起こり得ることです。
そこで大事なのは、お嬢さんを大人の女性にさせてあげることです。
尊厳を認めるのです。
あなたがもっと高い愛のレベルで接することです。
自分の都合を中心に考えて接することって愛ではないですよ。
自己愛の延長線上です。
条件付けを最優先にしておられませんか。
人間というものはいつの間にか自分中心な生き方になってしまっている。
私の娘、私の家、私の教育方針、私の望む娘の理想ビジョン…
全部母親の押しつけです。
過保護、過干渉、自分が主人公になってしまっているのだと思います。
鬼の形相であなたに向かってくるのというのがその証拠でしょう。
「愛し方」を誤解しておられるのではないでしょう。
子供とのちゃんとしたかかわりができてる人を見習うとよいでしょう。
本当に関係を良好にしたければフェアになることです。
あなたがここで娘さんをコケおろしにして全部娘が悪い娘が悪いといっておられますが、私にはそうはうつりません。
この文章をそのまま見せる勇気があるでしょうか。
「お母さんは勝手。自己中。」と言われると思いませんか。
こじれた親子関係を修復するには第三者の公平な判断が大事です。
親は子供の味方をしません。
子供だって子供ながらにもう大人なのです。
おかしいことはおかしいと思っているのです。
お子さんとフェアに向き合う気を持ってください。
個人対個人ではなく、どちらにも味方しない公平な第三者を交えての会話をすると関係は驚くほど良好になるでしょう。
お近くのお寺にご相談なさって、三者面談をされることをお勧めします。
うちのお寺でも匿名可能で三者面談をしておりますが、双方の主張が食い違っているケースがほとんどです。
お母さんはお嬢さんに対して「こうであるに違いない」と思っていることが本当は違うのです。
お嬢さんもお母さんに対してうざい、ムカつくと思っていることがあるのですが、お母さんとしては、ある思いがあってそうしているところがある。そういう話し合いを冷静に二人ででもしてみるとよいでしょう。いよいよ手が付けられなくなったらお電話どうぞ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答をありがとうございました。

先日のバトルから時間をおいて、母娘で一旦心の冷却をして。
あのまま放置もできないので、必要最低限を感情論抜きで会話しました。

アドバイスのように、娘をいち個人と認めて尊厳を・・・と努めるために葛藤中です。
彼女には彼女の人生、彼女の考えがあるということなんですよね。

仰る通り、娘にとって私は正論をやめない勝手で自己中な人なのでしょう。
愛のレベルも低いとのご指摘に、違いますとは言い切れない自分があります。

日常生活を「めんどくせ」「うざ」の一言でやり過ごし、思い通りにならない事は他人のせいだから「どうでもいいわ」、でも失敗したと思われるのは無理。
これの受け入れ方が分からず苦しく思っていました。
そんなとき、結果を受けとめるつもりがないのに自制もせず、問題を起こす度、収拾したり我慢する家族に対し、まるで他人事で済ませて涼しい顔をしている姑と娘がオーバーラップし、憎しみで片づける考えを、同じく自制できない私でした。

薄氷の上で跳ねようとしている娘が、怖くてたまらなかったのです。
けれどそれもご指摘の通り、過保護、過干渉、親の自己愛の延長線上のことだったのかもしれませんね。彼女の失敗を目の当たりにする覚悟のないダメな母親です。

娘が失敗して苦しんだり、親も面倒なことに巻き込まれる位なら、注意して恨まれたほうがマシと思っていました。
ですが今回こちらで、厳しくも温かいアドバイスをいただき・・・
原因と結果の両方を本人が乗りえる姿を、黙って認めていく覚悟を持てるように
私自身「引き算」に努める必要があるということを教えられたような気がしました。

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